• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

青木 さやかさん(お笑いタレント)

小さい頃の将来の夢は

 そうですね、ピアノの先生とか――、あと小学6年のときの文集に〈私はスターで一人で舞台にたっている〉と書いてあったので、それに向かっていたような気がします。他には特別やりたいこともなかったし、早く自立して家を出たい、とかも特に考えてなかったですね。というのも、元々、名古屋ってあまり実家を出ない文化圏で、だからそういう発想もあまり無くて。

大学ではどんな学びを

 大学は名古屋学院大学の中国語学科に入って。でもこれは、そこしか受からなかったから入っただけで、特に中国語に志とかがあったわけじゃなくて(笑い)。卒業する頃になっても、やっぱり中国語も人並み程度で、全然武器にはならなかったですね。小さい頃に出来た勉強は、成長と共におざなりになっていて、それにすがって生きるのはもうとっくに無理になっていたし、将来のことは結婚すればどうにかなるか……、ぐらいのもので。

女子アナを目指す契機は

 大学のときに放送部に入ったんです。なにしろ放送なので、当然、人前で喋るわけで、そうするうち今度は、みんながアナウンサー試験を受けるというので、私も受けてみよう、となって――。そこからだんだん将来の夢がハッキリしていった感じですね。

時代は就職氷河期、苦労は

 それまでは、高校行くのが当たり前、大学行くのが当たり前、就職するのが当たり前……、と思ってきたのが就職試験で初めて挫折してしまって。それこそアナウンサーから一般的な試験まで全部落ちて、果ては、就活生が口を揃えて「あそこだけは絶対行くな」というブラック企業にまで蹴られてしまって。そのときに二人ぐらいの社長から「君は絶対に取らない」とまで言われたんです。それを聞いて、もしかして自分には一般的な企業でみんなと協力してやっていく才能がないのかなと思い詰めて。ビックリしたし、ショックでしたね。

青木さやか

テレビの世界にはどうして

 テレビ業界に直結するアナウンサーの専門学校があったんです。そこに1年通うと所属してタレントになれるという触れ込みで、藁にもすがる思いでそこに入った。正直、それでどうにかなるとも思ってなかったけど、それでもある程度は仕事をもらえて。キャラクターショウの司会とか、船内MCで太平洋フェリーにも乗ったりして――。あとは選挙のウグイス嬢、ウグイス嬢は本当に得意でした。

当時の将来の展望は

 本当に何もかもがどうでもよくて、最終的には結婚すればいいや、と思っていました。元々、付き合っていた彼が上京するのについてきただけだし、自分が売れるとかそんなの全然興味なくて。それなのにその彼が出て行ってしまったんです。原因は、主に私のパチンコ癖で、それに愛想をつかした彼はある日とうとういなくなってしまった。私は愛知県出身なのですが、パチンコ文化があって、とても楽しいんですよね。東京に来てからもタレントの仕事は大して増えなかったし、暇つぶしに再開したら、ズブズブと底なし沼にハマっていった。何しろパチンコ屋は一日中やってるわけで、暇つぶしには最適な上に、仕事の不安からの現実逃避も相まって、もうずーっとやっていました。そうこうするうち、彼はいなくなり、あとには借金だけが残って……、これはもう生きるには売れるしかない、って。

ご両親は心配されたのでは

 そうですね、その頃はもうろくに連絡も取り合ってなかったので、心配も何もなかっただろうけど、定期的な私の無心には答えて、お金を出してくれました。そういう意味では、自分で稼ぐようになって改めて思うけど、やっぱりお金って中々だせるものじゃないし、なんだかんだ愛してくれていたんだなァ……、と。あと、自分が母になってみて思うのは、娘にあんな生活されたら堪えるだろうな、ということですね。

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