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松岡 和子さん(翻訳家)

 翻訳家、演劇評論家・松岡和子さん。国内3人目のシェイクスピア劇全作の個人全訳を成し遂げた押しも押されもせぬ重鎮だが、輝かしい偉功とは裏腹、その道程は平坦ではない。シェイクスピアに惹かれながらも委縮し続けた青春の頃――、それでも『夏の世の夢』に導かれるように確かな一歩を刻み続けた。「逃げても逃げても結局シェイクスピアに通せんぼされて」、そう屈託なく微笑う松岡さんに仕事と人生を訊いた。

一枚の往復葉書、父は生きていた

 松岡さんが生まれたのは、旧満州の新京(現・長春)。終戦と共に日本に引き揚げたのは4歳のときだ。母は、幼い二人の娘と生まれたばかりの弟を抱え、父の郷里の岡山に身を寄せた。東京・杉並には父が建てた家があったが、満州にいた頃から人に貸し出していたため、いきなり出て行ってもらうわけにもいかず、とりあえず目途がつく間までは、と一家は親戚の家を転々とした。家族がようやく杉並の家に落ち着いたのは、松岡さんが小学校に上がる前の年のことだ。

 父は依然として行方知れずで、家族の誰もが漠然と諦念を抱いていたが、松岡さんが小学校5年のとき、一枚の往復葉書が舞い込んだ。生きてた! 満州国の官吏だった父は戦犯として旧ソ連に抑留されていたのだ。家族の喜びは並大抵ではなかった。父はその2年後に帰国するのだが、引き上げからの母の労苦を思うと、有難さと敬意がひとりでに湧いてくる。十年前に101歳で他界したが、今でも頭が上がらない。父が戻るまでの多感な時期は、いわゆる〝母子家庭″だったわけだが、どう振り返っても不思議に欠落感はない。よそのうちや友達を羨むといった侘しい思いを子供たちに一切感じさせなかった母は、本当に偉大だったと思う。東京女子大を出て、私立の女子中学高校で教鞭を執るその背中を、娘たちはしっかりと目に焼き付けた。大学を出て仕事を持つのが〝当たり前″だと教えられた。

『赤毛のアン』が翻訳への始まり

 翻訳文学に出会ったのは11歳のときだ。仲良しの友達と一緒にハマった『赤毛のアン』が始まりだった。その友達と二人してアンの世界と自分たちの日々を重ねながら、ふとこう思った。ああ、外国の物語をこんなふうに日本語にする仕事っていいな。実生の種が芽吹いた瞬間だった。大学は母と同じ東京女子大学の英文科に進んだ。『赤毛のアン』の影響も遠因だが、もう一つ忘れられない記憶がある。小学校4年生のときのことだ。その頃には、世の中も落ち着きを見せ始め、母の大学時代の友人たちが声を掛けあって、自分たちの子供らに英語を学ばせることにした。講師は彼女たちの大学時代の恩師のカナダ人女性。その教室は今でいうダイレクト・メソッドで、中学・高校生のクラスと、松岡さん姉妹が入った児童クラスに分かれていた。毎週水曜日に通うのが楽しみだった。このとき体験したネイティブ・イングリッシュに導かれ、松岡さんの人生の幕は静かに力強く開いていった。

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