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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第1回 ウーマンリブ運動を先導した ベティ・フリーダン(1921-2006) 

大学時代から目立った存在

 フリーダンは一九二一年にアメリカのイリノイ州の農産物加工業が主要産業である当時の人口が八万人弱のピオリアという地方都市で、ロシアからの移民で都心に宝石販売の商店を出店していたハリー・ゴールドスタインとハンガリーからの移民で地方新聞の編集委員をしていたマリアム・ゴールドスタイン夫妻の子供として一九二一年に誕生しました。地元の高等学校に通学し友人と文学雑誌を発行するなど活発な女性でした。

 一八歳になった一九三八年にマサチュセッツ州にある名門の私立女子大学スミス・カレッジに入学、優秀であったため一年のときに奨学資金を授与され、三年のときには大学新聞の編集を担当しますが、後年の活動を予感させるような政治的で反戦的な内容を掲載していました。成績は優秀で、一九四二年に首席で卒業、翌年にはカリフォルニア大学バークレイ校大学院に進学し、有名な心理学者E・エリクソン教授の指導で学習します。

 博士課程に進学する十分な能力があったのですが、友人の男性の反対に影響され、一旦は故郷のピオリアに帰還しますが、ニューヨークの都心に移動し、労働組合の発行する新聞の記者となり、一九五二年まで左翼の立場の記事を執筆していました。四七年に舞台演出の仕事をするカール・フリーダンと結婚、ニューヨーク郊外で生活しますが、第二子を妊娠したときに退職し、以後は様々な新聞や雑誌に記事を投稿する作家となります。

女性の地位向上に活躍

 フリーダンが女性の社会での役割や地位の問題に目覚めたのは一九五七年のことでした。スミス・カレッジを卒業してから一五年後の同窓会に出席したとき、結婚して郊外住宅に居住する専業主婦として生活している卒業生の大半が状況を不満としていることに気付いたのです。大学に入学した段階では教育で獲得した能力を活用する仕事を目指していたのに、その能力を活用する境遇に出会えていないという女性が大半という状況でした。

 そこで記者の経験を背景に、専業主婦として生活している女性から情報を収集したところ、大半の女性が大学で習得した能力を活用できない現状に不満があることが明確になり、記事として発表していました。それらを『女性らしさの神話(フェミニン・ミスティーク)』(一九六三)として出版したところ、ボーヴォワールの『第二の性』に匹敵する評判になり、四〇年間で約三〇〇万部も販売されるロングセラーになりました(図4)。

図4 The Feminine Mystique(1963)

 

 ここでフリーダンが主張したことは、女性には他者から承認される願望、自己を表現する願望が存在するとともに、子供をもつことを選択する権利、自由に生活する権利、自由に労働する権利が社会から認知されるべきということでした。アメリカでは一九二〇年に憲法修正第一九条が承認されて女性が投票権を獲得してから、一旦は女性の権利を要求する運動は退潮の傾向にありましたが、フリーダンの著書によって再燃したのです。

 フリーダンは一九六六年に開催された女性の地位についての第三回全米委員会会議に参加しますが、六四年に成立した雇用における男女の機会均等が認定されなかったため、会議に参加した二七名の女性とともに「女性のための全米機構(NOW)」を設立してフリーダンが会長に就任しました(図5)。一〇月には総会を開催し、雇用機会の均等、賃金格差の解消、妊娠中絶の自由などを提言し、組織は急速に拡大していきます。

図5「女性のための全米機構」創設委員(1966)

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