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菅谷 昭さん(医師、教育者)

 一列に並んだベッドには、俗にいう「チェルノブイリネックレス」を首に浮かべた子供たちが一様に体を横たえ、手術室では土足の医師たちが絶えず忙しなく行き来する……。そんな悪状況を歯がゆい思いで見つめながら、ふと、そういえば以前は日本もこうだった、と思い出していました。

医療支援決断の心中

 検診で現地を訪れるたびに、これはなんとかしなきゃいけない――、そう思っていた私は、事故後10年目、準備を整えると、単身現地に飛びました。勤めていた大学を辞してまでそこにこだわったのは、大学時代から抱く強い思いがあったからで、それは医師として患者さんに「あの医者に診てもらって良かったな」と言ってもらえるような人間になるというものだった。当時、私はすでに役職について医療の現場からは遠ざかっていて、それは本来の人生の目標とはかけ離れていたのです。そんな思いにチェルノブイリが追い打ちをかけ、自分のやるべき生き方はこれだ、と心に火がついたわけです。

 もうひとつ決断を後押しした理由があって、それは母の残した遺言でした。私を産んだとき、母は易者に「この子は43の年までしか生きられない」と言われたそうです。はじめてそれを聞いたとき、西洋医学に従事する職業柄、もちろん一笑に付したけど、実際、43の年にかかってみると、なんだかそれがつかえて取れない。しまいには本当に死と真剣に向き合うようになり始め、どうせ死ぬなら悔いのない生き方をと思うようになってきた。よく私の行動を指して聖人君子のように言う人もいるけど、渡欧のベースにはこんな話もあるんです(笑い)。

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