清々しき人々 第2回 世界に先駆けて大空を目指した 浮田幸吉(1757-1847)と二宮忠八(1866-1936)

ゴム動力の飛行機械を開発

 動力を使用する飛行機械の発明でも世界に先駆けた偉人が日本にいます。明治になる直前の一八六六年に現在の愛媛県八幡浜市矢野町に海産物商の家庭の四男として誕生した二宮忠八は家業を手伝いますが、物理、化学、薬学などに関心があり、測量の助手として勤務しながら、凧作りに熱中します。二〇歳になった一八八七年に丸亀歩兵第十二連隊第一大隊に入隊しますが、その訓練の途中での経験が忠八を飛行機械に興味をもたせました。

 一八八九年の連隊の秋期機動演習の帰路、忠八は昼食の残飯を目当てに飛来した数一〇羽のカラスの滑空する様子を漠然と観察していました。凧作りの経験から空気の抵抗を巧妙に利用しながら目的の場所に着地するのだと理解し、それ以後、時間を工面しては様々な飛翔する動物の様子を観察します。そして得意の物理の知識を駆使し、一個の物体に二種の応力が作用すると、物体は平行四辺形の対角線上を進行するという原理に到達します。

 さらに甲虫や玉虫を観察すると、鳥類のように羽根を上下に作動させずに飛翔していることに気付き、より詳細に観察すると上部の硬い羽根の下側に柔らかい羽根があり、下側の羽根の上下で推進し、上側の羽根が浮力を発生させていることを発見します。そこで全長三五センチメートル、翼幅四五センチメートルの機体に、四枚羽根のプロペラを背後に設置した「カラス型飛行器」を作成し、動力は聴診器のゴム管を細長く切断して利用しました。

 そして一八九一年四月二九日の夕方に丸亀練兵場内で試験飛行をします。カラス型飛行器を地面に設置し、ゴムひもを巻いてから手放すと、機体は地上をしばらく滑走してから離陸して上昇、一〇メートル先方の草叢に着地しました。日本最初の動力飛行機が飛翔した瞬間でした。翌日も一人で試験をし、今度は手持ちで手放したところ、地上六メートルまで上昇し、三六メートルの遠方に着地しました。ライト兄弟の最初の飛行の一二年前のことです。

 この成功に自信をもった忠八は人間の搭乗できる装置の開発に着手しますが、課題はプロペラを回転させる動力でした。模型に使用したゴムひもでは無理であることは明確でしたが、なかなか適切な仕掛けが工夫できませんでした。そこで動力の問題は後回しにし、一八九三年に両翼の長さが約二メートルある装置を製作し何度も試験を繰返し、玉虫型飛行器と名付けました(図3)。リリエンタールが同様の装置の特許を取得する前年のことです。

図3 玉虫型飛行器(復元模型)

除隊して開発に専念

 ところが一八九四年に日清戦争が勃発し、忠八も兵士として出征したため開発は一旦中断します。しかし、戦地での偵察や通信の手段が人馬しかない現実に直面し、動力飛行機の必要を痛感します。そこでこれまでの自身の開発の経緯を書類にし、自作の装置の図面も添付して、戦地の大島義昌旅団長に玉虫型飛行器を試作したが、動力の問題が解決できない。自分には資力がないので陸軍で専門の技師を動員して完成してほしいと上申しました。

 書類は旅団参謀の長岡外史に手渡されますが、折角の申請であるが、飛行するかどうか明確ではない技術を軍部として採用することはできないと、受領されませんでした。それ以後も忠八は何度も陸軍に上申しますが、受領されることはなく、周囲からは変人のように見做されるようになります。そこで忠八は軍隊において低位である自分の地位が障害になっていると判断して除隊するとともに、自己資金で開発すべく薬業の世界に進出します。

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