• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

笠井 信輔 さん(フリーアナウンサー)

放送にはいつ興味を

 小学校3年生のとき、参加していた子ども会活動で子ども祭りがあったんです。そのとき「ステージに立って司会する人!」っていう呼びかけに、思わず「ハイ!」と立候補した。で、司会をするわけですが、それがスゴいウケましてね。それ以降、団地のカラオケ大会なんかでも司会をするようになった。それからというもの小学校でも3年から委員会が始まると、もうずっと放送委員会でした。とにかく人前で喋ったりするのが大好きで、お楽しみ会があればその司会をしたし、修学旅行の演芸会でもやっぱり壇上でマイクを握った。しまいには先生や周りも分かって来て、なんかあれば「笠井がやれ」というし、そんな流れで生徒会に入って生徒会長や副会長もやりました。マイクを持って人前で喋ることに快感を覚えているような、そんな子どもでしたね。

いつアナウンサーを目標に

 僕が通った都立狛江高校って放送委員会は誰でも入れるんです。実際はクラブ活動なんだけど表向き委員会形式をとっていて、これはその方が予算が出るからということだった。原則、男性はディレクター、女性はアナウンサーと決まっていたけど、僕はどうしても喋りたくて。それで2年になったときルールを変えて、男性も喋れることにした。で、お昼の放送のディスクジョッキーを男性陣も務められることになって、僕は金曜日を担当することになったので、早速「ビッグ・フライデー・ミュージック」という番組を作って放送していました。その頃はもう〝将来アナウンサーになる〟というのを強く希望していましたね。

放送部以外はどんな活動を

 放送委員会と兼任でバスケ部に入っていたんです。バスケは中学からやっていましたが、高校に上がってからは何かと放送委員会に肩入れしてばかりいたのでバスケ部の方は休みがちだった。そうしたらそれを監督の先生にメチャクチャ怒られて。「辞めろ、辞めちまえ」ってね。だけどそれが何か悔しくて逆に最後まで続けました。結局、レギュラーにはなれなかったし、出番と言えば大勝のときか敗戦処理のラスト1分間だけでした。

大学は早稲田大学に進学を

 そんな高校時代を過ごしていたもんだから、進路指導のとき担任だった体育の先生に「早稲田に進学してテレビ局に入りたい」と告げると、「いや、笠井は大学行くより今すぐテレビに出ることを考えろ」なんて言われたんです。「そんなのイヤです。浪人してでも大学行く」と返すわけですが、そのときに思ったのは、(ああ、自分のことをちゃんと後押ししてくれる大人がいるんだな)、ということだった。テレビ局やアナウンサーになりたいという夢をバカにしないで、応援してくれる大人がいることが凄く嬉しくて。早稲田を選んだのは、早稲田に入れば放送局に入りやすいと聞いていたから。もう絶対入ると決めていたけど、これが本当に地獄の浪人時代でね。友達は一人も作らないと決めていたので、予備校から帰ってもずっーと勉強して。1月ごろになって、引きこもり同然の我が子を見かねた母が、「信ちゃん、もう勉強しないで」と泣きながら部屋に入ってきた。それぐらい、こうと決めたら徹底的な性格なんだけど、それだけに暗黒の時間でしたね。

大学時代はどんな風に

 そんな地獄の浪人生活を突破して早稲田に受かったもんだから、大学に入ってからすぐはもう遊び呆けてましたね。スキーがやりたかったからと、スキークラブにも所属した。そんなとき、小学校高学年のときの恩師に挨拶に行ったんです。多感な時期にガッツリお世話になったこともあって、先生とは以前から親しくする間柄だった。丁度ゴールデンウィークだったので、合格の報告にと伺ったわけですが、そのとき先生に「今何してるの?」と聞かれた。「スキークラブに入りました」なんて言うと、「信輔何やってんの?」と急に気色ばんで、「あなたテレビ局入ってアナウンサーになりたいんじゃないの」というわけです。「まあそれもあるけれど、遊びたいんです」と返すと「あなた何のために早稲田に入ったの。放送研究会なんてまさにテレビ局直結の所に入れる立場になったのに何をやってるの。今からでもいいから放送研究会に入りなさい」と言われたんです。こっちはビックリですよ。なにしろ遊ぶことで頭が一杯だったし、あんまりイメージもなかったんで。ただ、普段怒ったりしない先生があんまり言うもんだから、ありゃあ……、と思ってね。それでゴールデンウィークが明けるとすぐに放送研究会に入ったわけですが、それがやっぱり凄く大きかった。そこがアナウンサーになる上で、一番大きな節目でしたね。

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