• Memorial Archives
  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第3回 火星の観測に熱中した富豪 P・ローウェル(1855-1916)

日本から火星への転換

 しかし一八九三年の最後の日本旅行以後、ローウェルの関心は地上から天空に移行します。それには二種の天文学上の発見が関係しています。火星は約二年二ヶ月ごとに地球の軌道に接近し、さらに一五年から一七年に一回は通常の最短距離以上に最短になりますが、一八七七年の最短の時期に重要な発見がありました。第一の衝撃はアメリカの天文学者A・ホールが火星の二個の衛星「フォボス」と「デイモス」を発見したことです。

 第二の衝撃はイタリアの天文学者でミラノ天文台長スキアパレッリが五六〇〇キロメートル彼方の火星の表面を観測し、何本かの水路を描写した火星地図を発表したことです(図2)。この直線をスキアパレッリはイタリア語で自然の造形である「カナリ(川底)」と表現ましたが、英語で「キャナル(運河)」と翻訳されたため、人工の河川を構築するような高度な技術を所有する生物が存在するという大騒ぎになりました。

図2 スキアパレッリの火星地図(1877)

 

 人工の運河の存在を確信したフランスの天文学者フラマリオンは地球より小型の火星は高温の状態から冷却される時間が短期であるから、生命が存在した期間が長期になり、地球よりも進歩している生物が存在する可能性大と考察し、運河は存在すると主張しました。この見解に賛同したのがローウェルですが、巨額の財産があるので、一般の学者とは相違して自分専用の巨大な望遠鏡を設置して観察するという大胆な行動を開始しました。

個人天文台の建設

 まず天体観測に最適な場所をアメリカ国内で探索し、最後の日本旅行から帰国した翌年の一八九四年に空気の乾燥しているアリゾナの標高二一〇〇メートルの高地にある地方都市フラグスタッフを選定、望遠鏡を設置するドームを建設します。さらに自分の故郷であるボストンの会社に口径六一センチメートルの屈折式望遠鏡の製造を依頼し、完成した装置を鉄道でアリゾナまで輸送し、九六年にローウェル天文台が実現しました(図3)。

図3 自分の天文台で観測するローウェル

 

 屈折式望遠鏡の能力は対物レンズの口径が左右しますが、その前後では、一八八八年にサンフランシスコ東方のハミルトンにあるリック天文台に設置された口径九一センチメートル、九七年に完成したウィスコンシンのウイリアム・ベイにあるヤーキス天文台に設置された口径一〇二センチメートルが双璧でしたから、ローウェル天文台の個人専用の口径六一センチメートルの望遠鏡は、富豪の決意を表現する巨大な施設でした。

 

火星について書籍を出版

 ローウェルは火星の運河の発見によって天体観測に熱中しはじめましたが、素地は十分にありました。一〇代半ばには、自宅の屋根から口径六センチメートルほどの望遠鏡で天体観測をして「火星の表面には緑色の斑点があり、極冠には氷雪が観察できる」と述懐していますし、ハーバード大学時代の恩師は解析力学や天体力学が専門で、ローウェルも数学が得意であり、当時から宇宙にも関心がありました。その証拠に大学卒業の講演は「星雲仮説」という題名でした。

 地球外生命体の存在を主張する見解は過去にも存在します。偉大な天文学者であるJ・ケプラーは死後に出版された『ソムニウム(夢)』(一六三四)で、月面に住人が存在すると記載していますし、フランスの博物学者G・L・ビュフォンも「地球にあてはまることは地球以外の惑星や衛星にあてはまる。温度が適当であれば生命は出現する」と発言しています。そのような時期に火星に運河を発見という発表があれば、話題になるのは当然でした。

 生活に心配のない富豪のローウェルは観測場所を決定した翌年の一八九五年には早々と『火星』という書物を出版します。そこでは火星の物理条件は生命の存在を否定するものではなく、水分の不足は明確であるが、知的生命は灌漑システムを構築しているはずであり、それが観測された運河であると記載し、さらに火星の重力は地球の四割程度であるから、火星の知的生命の身長は地球の人間の三倍程度であるとも推測しています。

 ローウェルは火星の知的生命の容姿には言及しませんでしたが、人間の数倍の身長という見解に刺激されて誕生したのが作家のウェルズが一八九八年に発表した『宇宙戦争』でした。これは冒頭に紹介したCBSラジオの放送だけではなく、G・パルの映画『宇宙戦争』(一九五三)、S・スピルバーグの映画『宇宙戦争』(二〇〇五)などに影響し、細長い三本足(トライポッド)の火星の知的生命が社会に定着していきました(図4)。

図4 ウォーキング都心の火星人

続きを読む
2 / 3

関連記事一覧