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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第4回 津田塾大学を創設した女子教育の先駆者 津田梅子(1864-1929)

米欧へ大使節団を派遣

 一七世紀末期の名誉革命により近代国家になったイギリス、一八世紀後半の革命によって近代国家になったフランス、さらに独立戦争によって近代国家になったアメリカなどは、急速に世界各地に進出し植民地争奪戦を開始します。日本周辺にも一八世紀末期のロシアの艦船の出没を最初として、各国の艦隊が次々に登場しますが、その象徴がM・ペリーを隊長として四隻の艦船で一八五三年夏に浦賀に出現したアメリカの黒船来航でした。

 その威容に彼我の格差を痛感した徳川幕府は西欧社会の実態を調査するため、一八六〇年に遣米使節、六二年に遣欧使節、六四年には遣仏使節、六六年に遣露使節、六七年には再度、遣仏使節を派遣します。しかし翌年に明治維新となり、一旦、海外視察は中断しますが、一八七一年には明治政府の重鎮である公家出身の岩倉具視を特命全権大使とし、使節四六名、随員一八名、留学生四三名の総勢一〇七名にもなる大使節団を米欧に派遣します。

 著名な人々として、使節では初代総理大臣になる伊藤博文、維新三傑とされる大久保利通と木戸孝允(もう一人は西郷隆盛)、随員では西南戦争で自決する村田新八、釜石に日本最初の西洋高炉を建設する大島高任、五箇条の御誓文を起草した一人の由利公正などがいました。留学生には外務大臣などを歴任する牧野伸顕、自由民権運動を指導する中江兆民などが有名ですが、五名の女性もいました。その一人が今回紹介する弱冠六歳の津田梅子でした。

岩倉使節団に参加した女性

 梅子は津田仙と初子夫妻の次女として一八六四年に江戸の牛込南御徒町(新宿区南町)に誕生しました。ところが父親の仙は幕臣であったため明治維新とともに失職し、築地にできたホテルで勤務するとともに、東京の向島で西洋野菜の栽培などをして生計を維持しており、梅子も子供ながら農園の仕事を手伝っていました。ところが一八七一年になって仙が明治政府の北海道開拓使の嘱託に採用され、運命が転換しはじめます。

 一八六九年に北方開拓のため設置された北海道開拓使は、当初は機能しませんでしたが、翌年に黒田清隆が東京在住のまま次官となり、札幌農学校などを設立し発展しはじめます。黒田は北陸戦争や箱館戦争で指揮をした軍人ですが、人間を見抜く眼力がありました。箱館戦争では旧幕府軍を指揮した榎本武揚の助命に尽力し、榎本は一旦入獄しますが七二年に放免され、明治政府で逓信大臣や文部大臣を歴任し、黒田の眼力を証明しています。

 その黒田は女子教育が必要だという意見で、岩倉使節団に女子留学生を参加させるように手配します。そこで父親が六歳の梅子を応募させたところ五名の女子の一人として選抜されました。その背景には父親の仙が一八六七年に幕府がアメリカに注文した軍艦を受領するため、福澤諭吉などと渡米した経験があったからです。それ以外は永井繁子(一〇歳)、山川捨松(一一歳)、吉益亮子(一四歳)、上田悌子(一六歳)でした。

 現代でも外国に留学しようとすれば、それなりの覚悟が必要ですが、ほとんどアメリカの情報もない一五〇年前に、一〇代の女子が留学するのには大変な覚悟が必要でした。それを象徴するのが山川捨松という名前です。本名は咲子でしたが、母親が「捨てたつもりで留学させ、なにとぞ無事に帰国することを待つ」という気持ちで改名したということです。実際、上田悌子は体調不良で、吉益亮子は病気になったため翌年には帰国しています。

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