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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第4回 津田塾大学を創設した女子教育の先駆者 津田梅子(1864-1929)

首都で勉学して帰国

 一八七一年一二月二三日に一行は四五〇〇トンの汽船「アメリカ」で横浜を出発、翌年一月一五日にサンフランシスコに到着します。そこからは北米大陸を鉄道で横断してシカゴ経由で二月二九日に首都ワシントンに到着します。日本を出発してから七〇日後のことでした。梅子は日本弁務使館(現在の日本大使館)の書記で画家でもあったC・ランマン夫妻のワシントン郊外ジョージタウンにある家庭で生活することになります(図1)。

図1 渡米直後の津田梅子

 

 前述のように上田悌子と吉益亮子は一〇月に帰国しますが、梅子はランマン夫妻の家庭からジョージタウン市内にあるコレジエト・インスティチュートへ通学して初等教育を修了し、一八七八年からは私立の女子中学であるアーチャー・インスティチュートへ進学します。その過程でキリスト教に興味を抱くようになり、八歳になった七三年にはフィラデルフィア近郊の特定の宗派に帰属しない独立教会で洗礼を受けています。

 渡米してから一一年が経過した一八八一年に開拓使から派遣された三名の女性に帰国命令が到着しますが、梅子と捨松は在学期間が終了する翌年までアメリカに滞在、一八八二年七月に卒業して一一月に日本に帰国しました。しかし、当時の日本では、アメリカで習得した知識を活用できる職業もなく、山川捨松は陸軍大将になる大山巌と、永井繁子は海軍大将となる瓜生外吉と結婚しますが、二人とも梅子とは生涯の親友でした。

再度アメリカへ留学

 六歳で外国に旅立ち、一一年間も日本を留守にしていた梅子は日本に英語で手紙を送付していたほど日本の言葉も十分に習得しておらず、日本の風習にも不慣れであったため、適切な仕事に就職できませんでした。しかし、一八八三年に、ある夜会で岩倉使節団の船内で面識のあった伊藤博文に再会し、下田歌子という女性を紹介されます。歌子は宮中の女官でしたが、八二年から政府高官の夫人を教育する桃夭女塾を自宅で開講していた女性です。

 そこで桃夭女塾で英語の教師として勤務するとともに、伊藤の英語指導や通訳としての仕事をしていました。さらに八五年には学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語の教師として勤務しますが、上流階級の気風に馴染まなかったうえ、年頃になったために何度ももたらされる縁談にも興味がなく、生涯未婚を決意するとともに、いずれは日本女性の地位を向上させる学校を設立したいという意欲を醸成していきます。

 そのような時期に来日した留学時代の友人A・ベーコンに刺激され、再度の留学を目指し、華族女学校の西村茂樹校長から許可を取得します。この西村も人物であり、一八二八年に佐野藩堀田家に誕生して藩校で勉強、ペリー艦隊来航のときには老中阿部正弘に海防政策を提言しています。明治になってからは教育制度の確立に尽力し、七五年から一〇年間は天皇と皇后に進講もしていました。そのような背景から梅子の留学を許可してくれたのです。

図2 ブリンマー大学

 

 そこで梅子は一八八九年にフィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学に留学します(図2)。この大学はアメリカ北部の名門女子大学七校の一校で、T・H・モーガン教授の指導により生物学を専攻します。翌年には「カエルのタマゴの発生」という論文を共著で執筆し、イギリスの学術雑誌に発表します(図3)。このモーガン博士は一九〇四年には名門のコロンビア大学に移籍し、一九三三年にはノーベル生理学医学賞を受賞している大物でした。

図3 プリンマー大学時代

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