• トップランナー
  • 多種多様な道を駆け抜ける先駆者の生き様、若者への言葉を紹介

澤井芳信さん(スポーツバックス社長)

選手たちのセカンドキャリアを支える

『㈱スポーツバックス』――、スポーツの可能性を希求し、アスリートの価値を高める、を理念とするスポーツマネジメント会社だ。その事業は、人からときに建物(スポーツ施設)のコンサルティングと、幅広い。社長は澤井芳信さん。ワクワクをかたちにするのが日々楽しいと笑う。俊英の仕事の流儀、そのルーツに迫った。

夢中で白球を追った少年時代

 澤井さんの道程を貫くのは、スポーツ――とりわけ野球である。京都に生まれ、京都に育つ少年は、幼い日から取りつかれたようにバットを振った。Jリーグ発足を目前に控えた80年代の後半、野球は国民的スポーツとして不動の地位を保っていた。巷には、少年野球団が溢れ、子どもたちは競うように駆け込んでゆく。そんな匂い立つような熱気の中、少年は兄の後について一心にユニフォームの背番号を追った。

 小学校3年生になると、早速野球チームに入った。これといって強豪ではない。それどころか、寧ろ弱小の部類で、少年が卒業するのを待つように消滅してしまった。通う小学校には、二つも野球チームがあったし、野球全盛の世にあって、決して環境に恵まれたとは言えないかもしれない。それでも、目一杯野球を楽しんだのは間違いなかった。というのも、幼心に宿った「プロ野球選手になる」という夢の灯は決して消えなかったからだ。中学に上がっても、相変わらず野球中心の日が続く。学内の軟式野球部に所属して、泥まみれに白球を追う。とはいえ、この頃はまだ、シニアや強豪に入って……、という気にはならなかった。それでも、「プロになりたい」――その気持ちだけは本物だった。

 高校は京都成章学園を選んだ。中学3年生の夏、創部以来初の甲子園のチケットを手にした新鋭である。が、昨年度の京都の覇者とはいっても、そこはやはり新興勢力。部員は、ほとんどが「軟式上がり」だった。シニアやボーイズの有力選手は古豪に集い、その力は相変わらず強大である。対して、京都星章の本領は、そのシステムにあった。コンディショニングコーチや整体師を揃え、メンタルトレーナーの管理のもと、近代的なトレーニング法をいち早く取り入れていた。そこにきて、部員たちはみな驚くほど素直な質だった。監督、コーチを一切疑うことなく、甲子園を目指し、一心に心技体を磨き続ける。すると努力は身を結び、3年次には、見事、春夏連続の甲子園出場。特に夏の大会では、決勝まで駒を進め、〝怪物″松坂大輔擁する横浜高校と熱闘を演じた。

進学で求めた出会いの場

 大学は同志社大学に進学した。人生をトータルで見たとき、まだまだ勉強したいことがあること、人としての学び、出会いの場を求めて、というのが進学の大きな理由だ。が、もちろん大学に入ってからも、身体の核は変わらない。しっかりと野球部に身を置くと、3年までに全単位を取得して4年は野球に集中するぞ、そう目標を建て、ひたすらに邁進する。とはいえ、勉強を疎かにすることは決してなく、学部最難度の「産業関係論」では、高得点をマークした。すべては順調に思われた。それでも、ただ一つ、プロになることだけが叶わない。スポーツ誌で来季の主なドラフト候補に自分の名前を見つけ、リーグからプロが出るのを横目に、ついに4年間、ドラフト指名を得ることはなかった。

 卒業後は、社会人野球『かずさマジック』に入団、プレーを続ける。社会人野球は、原則、午前は仕事、午後は練習、あるいは試合、という流れだ。それが都市対抗の大会が始まると、朝から野球漬けになる。給料をもらい野球をやるわけだから、当然、シビアな世界だ。ここを新たな戦場に定め、澤井さんは、再び、プロのスカウトを待つことになる。が、待てど暮らせど、遂に天の声がかかることはなかったのである。

続きを読む
1 / 2

関連記事一覧