清々しき人々 第5回 交流電気を世界標準にした天才 ニコラ・テスラ(1856-1943)

 エジソンは直流を採用しており、交流を主張するテスラの意見には反対でした。意見の相違からテスラはエジソンの会社から退職しますが、実際は以下のような理由だとされています。すべて直流で装置を稼働させていたエジソンの工場を交流で稼働できるようにしたら五万ドルと支払うとエジソンが約束したので、テスラは見事に実現したのですが、エジソンは冗談だったと無視したので、テスラは退社したのだといわれています。

 これ以後、テスラはエジソンを嫌悪し、一九一六年にアメリカ電気電子学会が「エジソン勲章」の贈呈を打診したときは固辞しますし(翌年に受賞)、翌年には生活に困窮しているテスラを支援しようとアメリカ電気工学協会が「エジソン勲章」を授与しようとしますが、これも辞退しています。エジソンが死亡してから『ニューヨークタイムズ』には「エジソンは数学の知識を軽視し、自分の直感のみを信用していた」と皮肉な意見を表明しています。

交流電気の供給に進出

 テスラは生涯に約七〇〇の特許を取得していますが、最大の功績は交流電気を社会に浸透させたことです。琥珀などを摩擦すると帯電する摩擦電気は紀元前六世紀には発見されていますが、人間が電気を手中にしたのは一八〇〇年にイタリアの物理学者A・ヴォルタが電池を発明してからです。これは電圧が一定の直流電気ですが、一定の周期で電圧がプラスとマイナスに変化する交流電気を発生する装置を開発したのがテスラでした。

 グラーツ工科大学で直流電気を発生させる装置で実験していたとき、回転部分と固定部分を接触させているブラシから発生する火花でエネルギーを損失していることに気付き、その回避のため、電流が一定の時間間隔で強弱を繰返し、それによってモーターが回転する多相誘導モーターを開発しました。反対に、このモーターを水力や蒸気で回転させれば、一定間隔で電圧が変化する電気を発生させることが可能になります。これが交流電気です。

 テスラが多相誘導モーターを発明する以前、電気は直流で配電されていました。電力は電圧と電流の掛算ですが、電流が増加すると、送電のときに電流の二乗に比例する発熱のため損失が発生します。そこで電圧を高圧にして電流を低下させて送電すると損失は減少しますが、使用する末端では再度、電圧を低下させて配電することが必要でした。そのためエジソンが配電事業を開始した初期には一定の面積ごとに発電施設を建設していました。

 そこでテスラはエジソンに交流による配電事業を提案しますが拒否されたため、エジソンの会社を退職し、一八八七年に交流配電の特許を取得してテスラ電灯会社を設立します。翌年にアメリカ電子工学学会で交流配電の実演をしたところ、感銘したG・ウェスティングハウス(図2)がテスラに一〇〇万ドルの研究費用を提供し、発電施設を建設した場合は発電能力に比例して特許使用料金を支払うという契約をします。

図2 G・ウェスティングハウス

交流電気の普及に成功

 交流の威力を社会に証明する機会が一八九三年に到来しました。C・コロンブスがアメリカ大陸に到達して四〇〇年を記念する「世界コロンビア博覧会」(図3)がシカゴで開催され、会場の照明や動力に使用する電力供給の公募にウェスティングハウスとテスラは交流システムで応募し、直流システムで応募したエジソンを打破して採用されたのです。会場では発電装置も展示され多数の人々が未来の世界の一端を見物することになりました。

図3 世界コロンビア博覧会

 

 一八九五年には一般社会にも交流電力を供給するシステムが稼働を開始します。ナイアガラ瀑布の莫大な水力を利用する発電施設をウェスティングハウスが建設して世界の話題になったのです。この影響もあり、エジソンの会社も発電施設相互の送電には交流を利用するようになり、一九〇三年には新設されるアメリカの発電施設の大半がテスラの特許を使用する交流に移行していきます。しかし、しばらくしてテスラは独立します。

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