山崎 健一さん(元教員・市民ジャーナリスト)

震災後の現状を伝える冊子作りに力を!

「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」――、2016年、惜しまれながら逝去した不屈のジャーナリストの魂を継承しようと始まったコンテストだ。この賞は、地域に根差して発信を続ける個人・団体を表彰するもので第2回になる。

 優秀賞の山崎健一さんは、福島で教師をしながら、被災地ガイドのボランティアを続けている。その間、書き溜めた2束の冊子が評価を受けた。「大震災の報告メモ」「被災地の旅がいど」、地元、人生への強い愛情と、忘れてはいけない深い教訓に満ちた力作だ。福島に不撓の魂を訪ねた。

南相馬から避難、一枚の地図に始まった

 2011年の3月、川崎市に避難した。女房と娘、それに孫、一家4人が借り上げのマンションに入居し、そこで初めて避難者になった。生活を始めると、原発事故で非難する不条理にいてもたってもいられず、朝日新聞に投書したんです。新聞の掲載の当日、川崎市高津区のたかつ九条の会から「お会いしたい」と連絡が来た。きっと問い合わせて調べたのでしょう。行ってみると、南相馬の話をしてください、と言われて。自宅周辺のの近況は、当然、気になっていたから、逐一ネットでチェックをしていた。それを話すと、今度は「行ってみたい」という。それで急遽、レジメを作ることにした。だから最初は、福島県の地図一枚のプリントだったんです(笑い)。それがだんだんと口コミで広がるうちにプリントも増えていって。これまで被災地を案内した人は約千人にもなりました。

被災地のジャーナリズム

 ボランティアで福島の浜通りの案内をするようになると、いよいよプリントの枚数は加速していった。結局、総計53回、1000人を案内することになり、そのたびに情報の刷新をしては、福島の様子を発信し続けた。プリントの束は、2つの冊子に変わり、一つは福島の被災地旅ガイド、もう一つは、私が福島と歩んだ原発の記憶がまざまざと書き込まれた。実は、私は原発を作るときから見てきているんです。その当時の見学の様子から始まり、原発事故時の南相馬の光景、教え子たちの心の在り様、家族の姿を刻み込んだ。そこに、新聞や本で見聞きしたデータ、自身の投書を加える。それを8年に渡って続けた。決して事件を風化させてはいけない、そんな想いからだったんです。

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