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清々しき人々 第6回 生涯に10万体以上の仏像を彫刻した 円空(1632-1695)

長良川中流域に誕生

 この円空は『近世畸人伝』の記述から推定すると、一六三二(寛永九)年に美濃国竹が鼻(現在の岐阜県羽島市竹鼻町)に誕生したという見解が有力ですが、それ以外にも美濃国安八郡や美濃国中島郡など長良川沿いや美濃国郡上郡という記録も存在します。しかし岐阜県下呂市の薬師堂の木札に生誕場所が竹が鼻と記載され、岐阜県高山市の千光寺に保存されている「円空上人画像」にも同様の記載があるので、竹が鼻が有力とされています(図4)。

図4 岐阜羽島駅前にある円空記念碑

 

 このように出生も明確ではありませんが、それ以後の生涯も詳細は不明です。しかし、円空の木彫の仏像は木材の性質を的確に見抜いた彫刻であることから、木材に関係する仕事を生業とする家柄に誕生したのではないかと推察され、そこから長良川流域の地名が生誕の場所として浮上してきます。長良川は岐阜県郡上市にある大日ヶ岳を源流とし、急峻な山地を急流として下降し、岐阜県羽島市の一帯で濃尾平野に流出し、大河になります(図5)。

図5 長良川(関市鮎ノ瀬橋付近)

 

 円空が誕生した時期に、郡上藩主が木材を財源にしようと材木を河川で輸送する仕組みを整備します。上流では木材を一本ずつ流送する管流し、中流以後は川幅や流速に対応した規模の筏流し、濃尾平野からは二人の筏乗りが操作する大型の編成で河口の尾張まで輸送していました。円空の生誕場所の候補である上流の美濃国郡上郡も中流の美濃国竹が鼻も木材の生産や流通に関係する場所でしたから、生家が木材関係という推測は妥当です。

 それと同時に美濃国竹が鼻は木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が網目のように複雑に交差する位置にあり、氾濫の常襲地帯でした。円空が生活していた時代の約一〇〇年後の一七五四年から翌年にかけて、幕府の命令で薩摩藩が木曽三川を改修する宝暦治水が実施されますが、それでも完全に制御することはできませんでした。そして不幸なことに、円空が七歳になった一六三八年に発生した長良川大洪水により母親が死亡してしまいます。

 円空の少年時代には諸説がありますが、前述の『近世畸人伝』には、すでに幼少の時期に出家して、ある寺院に在籍していましたが、二三歳のときに出遁したと記載されています。この行動には母親の不幸が影響しているのかもしれません。異説では、誕生した土地の寺院に出入りして雑役をしながら修行し、付近の伊吹山中や加賀白山などで山岳修行をして、三二歳になった一六六三年に土地の寺院で得度(出家すること)したとされています。

 その時期に白山権現が夢枕に登場し、美濃の池尻弥勒寺を再建するように指示され、それを達成してから、飛騨の千光寺に滞在します(図6)。千光寺は標高九四六メートルの袈裟山の山頂付近にあり、八一〇年に嵯峨天皇の皇子である高丘親王が建立し、盛期には一九の僧坊、二〇の末寺、約三〇〇〇人の僧侶や僧兵のいる寺院でしたが、武田信玄の攻撃によって没落したという歴史があります。ここには円空による六〇体余の仏像が存在しています。

図6 千光寺(岐阜県高山市)

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