清々しき人々 第7回 鈴木梅太郎

世界に先駆け脚気の原因を発見した 鈴木梅太郎

大賞を受賞できなかった学者

 毎年一〇月頃になると、ノーベル賞受賞者の発表が話題になります。これはスウェーデン人実業家アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの開発によって獲得した巨額の資産を世界の発展に貢献した人物や団体を顕彰するために使用するよう遺言したことにより実現したもので、一九〇一年から物理、化学、医学・生理学の科学関係と、文学、平和の5分野を対象にして授与されています。なお経済学賞は一九八六年に追加で設定されたものです。

 最近では毎年のように日本人受賞者が登場しますが、一九四九年に湯川秀樹博士(図1)のノーベル物理学賞受賞までの五〇年近く、日本人受賞者はゼロでした。また科学分野の国別の受賞者数でも、アメリカが四三%、イギリスが一三%、ドイツが一一%、フランスが五%で、日本は四%でしかありません。それは近代科学が西欧中心に発展したことを反映していますが、戦前の日本にも受賞の価値のある業績を発表した学者が何人も存在していました。

湯川秀樹

図1 湯川秀樹(1907-81)

 

 一例として、第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞したのはドイツのE・A・ベーリングで、業績はジフテリアの血清療法の研究でしたが、この業績は一八九〇年に日本の北里柴三郎と共著の論文で発表したもので、ベーリングも受賞演説で北里の貢献に言及しています。共同受賞の慣習がなかった結果ですが、当時の西欧優位の風潮が影響したとも推測されています。もう一人、同様の背景で受賞できなかった日本の学者を今回は紹介します。

多数の兵士を死亡させた脚気

 明治維新により開国して三〇年足らずの時期に発生した日清戦争と、その勝利から一〇年後に発生した日露戦争は弱体になっていたとはいえアジアの大国である清国とヨーロッパの大国であるロシア帝国を相手に薄氷の勝利でした。日露戦争の勝敗を決定した一九〇五年五月の日本海海戦での戦闘開始直前に旗艦「三笠」に「皇国の興廃この一戦にあり」を意味するZ旗が掲載されたのは単純に兵員を奮起させるだけではなく、本心でした。

 両戦とも日本は勝利しましたが、被害は甚大で、日清戦争では一年四ヶ月の戦争期間に戦場で銃弾により死亡した人数は約一一〇〇名でしたが、病死は約一万二〇〇〇名にもなりました。日露戦争でも一年七ヶ月の戦争期間に戦闘による死者は約五万六〇〇〇名でしたが、病死は約三万七〇〇〇名にもなっています。どちらも極寒の戦地での戦闘であったため、凍傷などによる死亡も多数でしたが、それ以上の被害をもたらした病気がありました。

 どちらの戦争でも病死の最大の死因は脚気でした。日清戦争では約四〇〇〇名、日露戦争では二万七八〇〇名が脚気で死亡していますが、ほとんどが陸軍で発生し、海軍では少数であったために食事が原因ということが推察されていました。海軍では帝国海軍軍医の高木兼寛(図2)が軍艦によって脚気の発生比率に相違があり、それは艦内での食事の相違によることに気付き、洋食を中心に変更したところ、脚気が一気に減少していたのです。

図2 高木兼寛(1849-1920)

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