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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第8回 景観建築を誕生させた F・L・オルムステッド(1822-1903)

図1 バーケンヘッド公園(1847)

 

 それ以前の一八五〇年にはイギリスを旅行して公共公園を視察し、イギリス中部の都市バーケンヘッドにJ・パクストンが設計した「バーケンヘッド公園」に感動します(図1)。パクストンは翌年、イギリスが開催する世界最初の「大博覧会」の会場となる鉄骨とガラスでできた「クリスタル・パレス」(図2)を設計した人物です。オルムステッドはイギリスでの印象を「アメリカ農夫のイギリスでの旅行と談話」(一八五二)として発表しています。

図2 クリスタルパレス(1851)

セントラルパークの成功

 ニューヨークのマンハッタンは一七世紀初期にオランダの商人が南端に入植し、ニュー・アムステルダムと名付けていた場所ですが、次第に北側に発展し、一九世紀初期の三〇年間で人口が四倍になるほど増加していきました。それとともに居住環境が悪化してきたため、アメリカの造園作家A・J・ダウニングなどが、ロンドンのハイドパークやパリのブローニュの森林のような市民のための公園が必要だと主張するようになります。

 そこで一八五三年にニューヨーク州議会が「セントラルパーク」となる広大な土地を公園用地に指定、五五年までに、すでに居住していた人々に退去してもらい、現在価格に換算すると約二〇〇億円にもなる金額で用地を取得し、五七年に公園計画の公開競技設計を実施します。三三の提案がありましたが、オルムステッドは公園設計の恩師であるA・J・ダウニングから紹介されたC・ヴォークスと共同で応募、見事に一位に選定されました(図3)。

図3 セントラルパーク(1857)

 

 提案の大半が公園を周囲の街区と融合させるような内容でしたが、一位となった二人の提案は公園と周囲を明確に分離した計画でした。当選の決定直後から工事は開始されますが、敷地は岩山と沼地が大半で、南北戦争の激戦ゲティスバーグの戦闘で使用された以上の火薬を使用して岩石を粉砕、植栽に不敵な土壌を大量に除去する一方、適切な客土を搬入して植林し、以後の手本となる公園を実現し、オルムステッドは初代の園長に就任しました。

 この都市公園が評価されたのは巨大都市に広大な緑地が出現したという以上の理由があります。建設段階では巨額の工事費用により大量の雇用が発生して失業対策になりました。完成した段階では、養豚農場があった場所が散策のできる緑地になり、水路の開通が大雨対策になり、立体交差道路により馬車に干渉されずに人間が散策できるようになるなどの計画により、周囲の土地の価値が向上し、ニューヨークを象徴する場所になったのです。 

アメリカに公園運動が発生

 セントラルパークの評判は全米に浸透し、都市公園を建設する「アメリカ公園運動」が発生します。マンハッタンに隣接するブルックリンは煉瓦用採石場跡地を公園にする設計をオルムステッドに依頼します。岩山を公園にする無理な注文でしたが、セントラルパークで大量の客土により植栽を可能にした経験により緑豊かな「プロスペクトパーク」が実現しました(図4)。これらの成功により設計依頼が殺到し、数百の都市公園を実現しています。

図4 プロスペクトパーク(1867)

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