• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

柄本佑さん(俳優)

 俳優・柄本佑さん。中学での映画デビューを皮切りに、次々と賞を手にする実力派は、生粋の映画好き。イキイキと役をこなしながらも、いつかは映画を撮りたいと、夢見続ける。その核はどこに……。十代の地図を開いた。

どんな少年時代を

 ともに俳優の両親はどちらかと言えば留守がちで。だから、隣近所や街にも育ててもらいましたね。

 二人が仕事でいないときなんかは、兄弟3人で連れ立ち、レストランにブラっと行って、食べて帰る。  で、お代は後々両親が支払いをする――。そんな風に子ども時代の3、4割を街のお世話になった感覚がありますね。

そのころの興味の中心は

 特別これといったものはなかったと思います。周りの子と同じように、流行りの玩具や模型を手に取ったり、流行の漫画を読んだり……、割と普通の子どもだったと思いますね。でも、一回、母に「お前は乱暴者だ」と言われたことがあって。どんな状況だったかは思い出せないんですけどね。

中高ではどんな生活を

 中高のころは大人しかったし、友達もいなかったので、専ら本ばかりを読んでいました。友達がいなかったのは、友達を作るよりも映画を見に行ったりする方が好きだったから。というのも、その頃にはもう本や映画が大好きで、そういうものに熱中していると、自然、一人のことが多かった。

中3で映画デビューを

 はじめて映画に出て、現場を踏んで……。ただ実はそのころの夢は映画監督になることだったんです。役者を経験してもその気持ちは変わらず、「俳優になりたい」とはならなかった。それでも、得るものもあって。役を演じること、モノづくりの楽しさに、心が芯から熱くなった。刺激的だった。

役者の本格的始動はいつ

 役者デビュー後も、1年半くらいの間は自分で脚本を書いたり、プロットを練って映画作りを夢見ていた。それが高校2年のとき、今の事務所の社長に声を掛けられて――。そこからですね、ドンドン役者の道にハマっていった。だから、特別そこに細かい計算があったわけじゃないんです。そのとき楽しいことをこなしていったら俳優に繋がったというのが本音ですね。

早稲田大学芸術学校空間映像科に進みます

 日頃から母に「大学は出ておきなさい」というのを口すっぱく言われていたんです。で、その言いつけ通り、ちゃんと受かっている大学もあるにはあったけど、やっぱり「映像がやりたい」というのが強く頭にあった。映画監督になるという目標も依然、胸に残ったままだったし、結局、大学の方はやめ、改めて映像系の専門学校を探すことにした。それで早稲田に白羽の矢をたてて……、という感じですね。

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