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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第10回 最初にチベットに到達した日本人 河口慧海(1866-1945)

勉強熱心であった若者

 河口慧海は幕末の一八六六(慶応二)年に、現在の大阪の堺市で桶樽を製造していた職人の河口善吉と常子を父母として誕生しました。子供の時代から勉強熱心で六歳から寺子屋清学院で勉強し、さらに新設の泉州第二番錦西小学校に通学、以後は家業を手伝いながら私塾で漢籍を学習し、アメリカ人宣教師から英語を習得するなど努力していました。二〇歳になったときに京都の同志社英学校に通学しますが、学費が支払えず帰郷します。

 一八八八年に堺市立宿院小学校の教員に採用されますが、さらに勉強するため東京に移動し、井上圓了が前年に創設した哲学館(現在の東洋大学)で苦学しながら勉強し、九〇年に東京本所の黄檗宗五百羅漢寺で得度します。九二年には哲学館を卒業し、一旦は大阪に帰郷して妙徳寺の僧侶となり、そこで熱心に勉強した甲斐があり五百羅漢寺の住職になりますが、それに満足せず、仏教の原典を入手するため、チベットを目指そうと決意します。

鎖国状態のチベットを目指す

 当時のチベットは厳重な鎖国状態にあり、入国は容易ではありませんでしたが、とにかく一八九七年六月に神戸から出航し、シンガポールを経由してイギリス領植民地であったインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に到着しました。そこでインドの独立運動の闘士であり、後年、日本と密接な関係になるスバス・チャンドラ・ボースに出会い、その紹介でダーリジン在住のチベット言語学者サラット・チャンドラ・ダースを紹介されます。

 そこで現地の学校で正式のチベットの言葉を習得し、同時に下宿した家庭の家族から俗語も勉強して準備をします。チベットへ入国するためにはヒマラヤ山脈を横断する必要がありますが、いくつかの経路のうち、ネパールを経由する経路を選択します。一八九九年一月に出発し、まず釈迦が成道したブッダガヤに参詣しました。そこの僧侶から釈迦の舎利を納入した銀製の容器と経文一巻をチベットのダライ・ラマ法王に手渡すよう依頼されます。

 二月にはネパールの首都カトマンズに到達し、チベットへの間道を探査します。冬期であるうえ厳重な警備で通過できそうにありませんでした。そこで国境付近の集落に滞在し、チベット仏教を勉強しながら待機しました。翌年六月にチベットを目指して出発し、七月に間道を利用して国境の通過に成功してチベットに入国します。各地の聖地を巡回しながら、ついに一九〇一年三月に首都のラサに到達しました。二年以上の旅程でした(図3)。

図3 ラサの遠望(『西蔵旅行記』)

 この旅行が想像できないほど困難であったことは帰国してから出版した『西蔵旅行記』にも紹介されています。足元は現在のような登山用靴があるわけではなく草履という貧弱な装備、一帯は凶暴なユキヒョウが出没する危険地帯、飲水はボウフラがウヨウヨしているような溜水、焚火をすればカムという強盗を生業としているような少数民族が出没、帯同している人夫も強盗に豹変する場合もあるという極限状態の旅行でした。

 旅行の途中で吹雪になったとき、テントで宿泊している何組かの人々に出会ったのですが、同宿されてくれそうにもありませんでした。そこで慧海は、このような人々も仏教を信心すれば改心するかもしれないと、一心に読経をしたところ、呪術をかけられていると誤解した家族が同宿をさせてくれたという逸話もあります。このような苦労をしながら標高数千メートルの高地を旅行して、ようやくチベットの中心都市ラサに到達したのです。

危険を察知して脱出

 日本人では入国が許可されないので中国人を名乗っていましたが、入国してからはチベット人の僧侶に変身、ラサで第二の規模のセラ寺院の大学に僧侶として入学し、複雑な生活をすることになります。その期間に、脱臼した人間を治療したところ医者として評判になり、次々と患者が到来するようになりました。そこで民衆からセラ・アムチー(セラ寺院の医者)と名付けられ、ついにダライ・ラマ一三世に謁見が許可されるまでになります(図4)。

図4法王に謁見する(『西蔵旅行記』)

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