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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第11回 波乱万丈の人生を超越した俳人 小林一茶(1763-1828)

 この農村の百姓で当時三一歳の小林弥五兵衛と二〇代の「くに」の長男として一七六三年に誕生したのが一茶となる弥太郎でした。父親は農業をするとともに駄馬によって街道で荷物を運搬する仕事もしており、それなりの収入のある農家でした。しかし弥太郎が三歳になったときに母親が死亡し、祖母の「かな」により養育されましたが、弥太郎が八歳になったときに父親が「さつ」という女性と再婚し、仙六という子供が誕生します。

 そして弥太郎が一四歳になった一七七六年に可愛がってくれていた祖母が死亡し、継母との関係は微妙になっていきます。しかし、四石程度の収穫しかない農家といえども田植や刈入の時期は人手が必要で、弥太郎は仙六を背負って仕事を手伝っていましたが、宿場の本陣の中村六左衛門が子供に教育をしていたため、勉強をすることはできました。五〇歳代になって、その時代を回顧した

   継ツ子が 手習をする 木葉哉

という俳句が記録されています。

江戸に奉公し俳句に目覚める

 しかし、祖母の没後は継母との関係が悪化していく一方であったため、弥太郎が一五歳になった一七七七年、父親は江戸へ奉公させることにしました。継母と別々に生活すれば関係が修復するかもしれないという父親の思惑からと想像されます。江戸での生活の詳細は不明ですが、信濃の田舎とは桁違いの巨大都市での奉公は大変に過酷な生活で、父親の思惑とは反対に継母への憎悪は増加する一方で、晩年の文集にも気持を記載しています。

 このような苦労ばかりの生活から息抜きのために見出したのが俳諧でした。弥太郎が下総国馬橋(現在の千葉県松戸市)にある大川立砂が主人である商家に奉公していたとき、その立砂が俳人でもあったため、俳諧に興味をもつようになりました。そして二五歳になった一七八七年に俳諧で生活していくことを決意し、当時、江戸の東部で隆盛であった葛飾派の宗匠の二六庵竹阿の弟子となり、俳号も菊明と名乗るようになります。

 やがて菊明は句会の進行をする執筆に抜擢されるようになります。この役目は俳句に登場する故事などの知識があり、礼儀作法にも見識がある人物が担当するのですが、そのような能力があったと推察されます。当時は九〇年前の芭蕉の『奥の細道』の行脚が有名になっており、多数の俳人が芭蕉の足跡を確認しながら東北から北陸を旅行していました。菊明も二七歳の一七八九年に東北地方を行脚し、象潟、松島、恐山などの名所を訪問しています。

 この旅行から二年が経過した一七九一年に菊明は一茶を名乗るようになったと推定されていますが、翌年三月、父親の病気を理由に一旦帰郷します。江戸に移動してから一五年が経過し、二九歳になっていました。ここで父親には俳人を職業として生活し、そのため西国を行脚する計画があることを説明し江戸に帰還します。そして翌年、言葉のように西国行脚に出発しますが、下総、浦賀、伊東、遠江などの友人を訪問してから京都を目指しました。

 京都では父親に依頼された西本願寺へ代参し、大阪、河内を経由して四国に渡航、自分の俳句の師匠の弟子が生活している讃岐観音寺を拠点とし、四国の各地を巡回してから九州に移動し、翌年の一七九三年に九州各地を旅行、九四年には再度、四国各地を巡回し、出発してから六年が経過した九八年に江戸へ帰還しました。これが容易な旅行ではなかったことは

   秋の夜や 旅の男の 針仕事

という俳句が表現しています。

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