• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

中村 敦夫さん(俳優)

『線量計が鳴る』――福島第一原発事故ですべてを失った双葉町の配管技師が、地元に根差し、破滅させた原子力の全貌を暴く朗読劇だ。演じるのは俳優・中村敦夫さん。『木枯し紋次郎』で一世を風靡すると、政界にも進出。作家、TVキャスターを経て、同志社大では教壇に立つなど、多方面に才を放つトップランナーだ。「勝ち負けを考えず好きなことをするのが人生を楽しむコツ」――達人の十代を訊いた。

どんな幼少期を

 太平洋戦争末期の東京に生まれ、ほどなく福島に疎開。そこで小、中、それに高校の最初の半年を過ごしました。というのも親父が福島県人でね。ちょうど終戦の1年前、読売新聞で記者をする親父の耳に、「とうとう東京空襲がはじまる」という情報が入ってきた。家族は騒然となる。急いで疎開先を探すと、親父の福島県郡山の実家に空き部屋があった。そこに親父を除く家族がまず疎開した。

 東京に降った爆弾は「焼夷弾」と言って、燃焼性の爆弾です。木造家屋が密集する日本の都市を燃やすためにこれを米軍が用意した。昼夜を分かたず、東京は燃え続け、10万人以上が犠牲になった。ようやく戦争が終わったとき、東京は焼け野原になっていた。

戦後の暮らしは

 東京はなにもかも燃えてすっかり瓦礫の山になった。当然、読売新聞の再開も当面の間、見送られる。そんな親父のもとに「平(現・いわき市)で支局長をやらないか」と声がかかった。

 それは、地元の『福島民報』という新聞社で、その誘いを親父は二つ返事で受けたんです。当時、支局長の仕事場は家だった。一階が新聞社、2階が家族の居住空間、という具合です。そんな調子だから、下の事務所に降りるといつも大抵5、6人の新聞社員がいる。彼らの話す刺激的な情報に目を白黒させて相槌を打っているうち、どんどんマセていった。

中学時代印象的なことは

 中学はそのまま地元の平一中に進んだ。とりわけ勉強したわけではないけども、小学校では生徒会長だったし、中学でもやっぱり生徒会長をやった。学校生活は充実しているし、豊かな自然に囲まれて、ときどき思索にふけったり……、楽しかったですね。

 変わったのは3年のとき。急に受験ムード一色になった。「この道に外れると恵まれない一生を送る」そういう脅かしがかかってくるわけです。子ども心にこれがすごく不合理でね。

 そもそも勉強なんてくだらない。なのに、そのくだらないことを覚えた者だけがどうして出世できるんだ――、こう思っていた。そんな風だから、そんな世の中のシステムすべてが、何かとてつもなくいかがわしいものに思えた。

 試験さえ受かればそのまま出世のレールに乗かって、退職金、天下り先、果ては棺桶の値段まで決まる。それは僕からしたら、楽に権利をつかむために作られた実にくだらない人生に見えた。

 といって、一緒に歩く級友は皆その道に入るし、なにより、東京人のお袋は帰りたいのか僕を東京へやりたがっている。それを足掛かりに東京に戻るつもりなんでしょう。こうなるとひとり反抗して残ってもしょうがない……。結局、福島の進学校を半年で後にして、東京の新宿高校に転校したんです。

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