• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

中村 敦夫さん(俳優)

高校は都立新宿高校に

 当時は「都立が良い」とい聞いていた。なかでも日比谷、戸山、新宿などが有名でね。「良い」っていうのは東大進学率のことです。そのころ毎年100人近くの卒業生が赤門をくぐった。

 新宿高校を選んだのは、ちょうどそのあたりに遠い親戚がいて、3畳間が一間空いているという理由だった。そこに籍を置けば受験資格が得られるし、下宿もさせてもらえる。転校は地方校のトップクラス同士で競うから普通に受験するより難しいんだけど、なんとか入ることができた。

 ところが、入ってみるとやっぱり今までとレベルが違うんですよ。それまでは、生徒の学力にバラつきがあったけど、新宿高校では400人くらいが90点から100点の間にビッシリ集まっている。もう1点の重みがとんでもないわけです。

 そういう中にいると当然、人間関係も健全じゃない。人が病気になると喜んだりね……。物凄く不健康な精神状態です。いまの新宿駅南口を降りて、御苑にのびる道――、その数百メートルを2本の白線が入った古風な学帽が辞書を片手に朝、ダーッと列をなして歩く。異様な光景でしたよ。「何時間寝なければ合格」、「何時間寝れば不合格」ってねもう狂気ですよ。

東京外語大に進学されます

 勉強にはすっかりウンザリしていたけど、親の手前もあるし、大学はいかねばならない。で、僕は浪人は嫌いだったんです。

「なんでそんな浪人までして無駄な人生を1年増やすのか」そう思っていた。

 親父は家庭をほっぽりなげるタイプで、家にはお金がなかった。新聞社の支局長をやっていて、少なくない月給をもらっているはずなのにいつも借金に追われている。とにかく大盤振る舞いをして、夜の街に消えてしまう。

「デカダン(退廃的態度をとる様)」なんて言葉が当時流行ったけど、地で行く人だった。子どものころ、月末が怖くてね。昔はどこもツケといって借金払いが多かった。月末になると集金に来るわけです。でもお金なんかないからね。〝ドンドン″とドアを叩くイヤな音に必死で耳をふさいで一家で息を潜めていた。そんな状況だから私立の大学に行くのは難しいわけです。それで東京外語大学を受けた。ここなら国立だし、試験も4科目ですむ、そう考えた。

大学ではどんな学びを

 まず英語やフランス語のような当たり前のものはやめよう、と思った。そんなのはやりたきゃ自分でやればいい。それより、なんとか日本から逃げ出す方法はないだろうか、そればっかり考えた。

 外語大に進んだ理由もそれですよ。「日本で受験戦争の延長戦のような人生を送るなんてまっぴらゴメンだ。安定を求めるより、朝、目覚めた瞬間何が始まるだろうとワクワクする生き方がいい」ってね。

 サマセット・モームの『月と6ペンス』という小説があるんです。ゴーギャンをモデルにしたもので、競争社会の奔流にいた人間が、ある日、家族もキャリアもすべてを捨て、タヒチで絵を描くという本なんですが、一読して「これじゃないのかねぇ」と思ってね。

 でもタヒチは少し遠すぎる。それで探してたら、「マレー・オランダ語学科」というのがあった。「マレー語」というのは東南アジア一帯で使われるポピュラーな言語のひとつで、その辺りは長くオランダの植民地だった。一目見て、これだと思った。ゴーギャンみたいな暮らしができるんじゃないか、というわけです。

 ところが入ってみると一週間しないうちにその学科の正体を知ってね。定数20人ほどの小さな学科だからほどなくみんな知り合いになる。そうするとみんなが就職の話をしてるんです。「あそこは退職金が幾らだどうだ」とそんなことばかり話す。聞けば浪人して入ってきたのも沢山いる。なんだこれは……、と唖然とするんだけど、ようするに「商社マンコース」だったんですね。

 20人中、15、6人は確実に商社に入る。国内のサラリーマン人生から逃げようとしてるのに、それに輪をかけて強烈な、外国で戦う「モーレツ社員」の育成機関に入ってしまったんです。コレはしまったなァと思ってね。しょうがないから時間をつぶすために野球部に入ったんです。だからよく「何科ですか」と聞かれるんだけど、「野球部」と答えてる(笑い)。授業に出てなかったからね。

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