• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

中村 敦夫さん(俳優)

演劇の世界にはどうして

 演劇は、絵やほかの好きなもの同様、小さいころから年中やっていた。学芸会では常に主役だったし、それどころか脚本を書いたり演出までしていた。で、「小学校の卒業式の謝恩会でなにかやりなさい」、そう先生に言われて、「20年後の同窓会」という戯曲を書いたんです。

 卒業から20年後、おじさんおばさんになって集まった同窓生たちが思い出話をするという構成なんだけど、目いっぱい嫌いな先生たちの悪口を詰めこんだ。それを校長やらPTAやらみんないる前で発表したわけです。言ってみれば文化的手段での逆襲ですよね。僕はいまでもアレが生涯一の傑作だと思うんだけどね。

 一方、大学生活はと言えば、相変わらず2年目に入ってもさっぱり勉強する気にならない。そのうちついに単位が足りなくなり落第した。でも、こんなところで1年余計になんて過ごしたくないわけですよ。

 なんか逃げる口実はないかな、と目を付けたのが演劇だった。当時先端を走ってたのは、「新劇」というジャンルで、いくつかの大きな劇団が先端的なテーマで興行をうっていた。その中で一番システムがしっかりしていたのが「俳優座」だった。で、その養成所に入った。

ハワイ大学に留学されます

 3年経って卒業の時期がくると、「文学座」を受けた。授業には反抗し通しだったし、良い生徒じゃなかったからね。俳優座は無理だと思ってた。

 ところが、僕には俳優座に来い、という重鎮がいてね。あとで分かったんだけど、どうも英語のできるスタッフが欲しかっただけなんですよね。文芸部みたいなところに入れられて塩漬けですよ。

 それでどうしたかっていうと、外国の演劇誌をとって読み漁った。そうすると当時そんな人はいないからすぐに権威になっちゃうわけですよ。

 そうこうするうちにアメリカの国務省が奨学金を作った。アジア太平洋圏の小さな国々も含め、多彩なジャンルの若者をハワイ大学に集めてアメリカの教育を受けさせるというんです。そこには演劇コースもあって、誰か行ってみないか、となった。当時、外国に行くなんてのは夢のまた夢でね。もちろん二つ返事で受けた。

 ハワイでは見たこともないような白い綺麗な建物に案内され、部屋にはそれぞれシャワーがついている。日本の学生寮なんか3畳一間に布団を敷いて足の踏み場もなかったから、これはエライ違いだ。そこにこれも見たことも聞いたこともないような様々の人種が集まってる。我々がビックリするような考え方、宗教を持ってるわけですよ。それでどうしたかといえば、僕の中で国際化が起きちゃった。そこで差別や人権が血肉化されたんです。

『線量計が鳴る』のきっかけは

 そもそも、一度事故が起きればもう取り返しはつかない原発をなんでまだやってるんだということです。帰れなくなった人はみんな難民ですよ。

 かつて、国、企業、マスコミ一丸になって、「原発安全神話」の一大キャンペーンをはった。その結果こんなことになったのに、全部なかったことにしてオリンピックなんかやろうとしてる。

「原発は安全だ」と言えなくなったら今度は「放射能は安全だ」とまで言い始めた。なんでそうなるかといえば、エネルギーが独占事業だからです。そこを中心に利権が集中している。「原発ムラ」ですよ。そこには「戦犯」がいる。そんな世に出る虚実ない混ぜの情報を、整理して分かりやすく伝えているのが『線量計が鳴る』なんですよ。

なかむら あつお 1940年、東京都生まれ。1958年東京外国語大学入学。1963年俳優座入団。1972年、主演テレビ時代劇「木枯し紋次郎」が空前のブームとなる。1984年、参議院選挙に立候補し当選。「公共事業チェック議員の会」会長、環境委員などを歴任。政界引退後は文筆、講演、朗読劇など活動の幅を広げる。現在、日本ペンクラブ理事、環境委員。

(月刊MORGEN archives2018)

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