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清々しき人々 第13回 天平時代の社会改革に活躍した僧侶 行基(668-749)

社会活動に進出した僧侶

 朝廷の役人であった憶良が社会の実態を和歌として記録したことは価値ある業績ですが、その実態を改良しようとした僧侶が存在します。その僧侶である行基を今回は紹介します。近鉄奈良駅前の広場に両手に数珠をもつ一体の彫像が設置されていますが、これが行基です(図1)。行基は憶良と前後して六六八年に河内国大鳥郡(現在の堺市西区家原寺町)で渡来の家系とされる高志才智と蜂田古爾比売を父母として誕生しました。

図1 行基像(近鉄奈良駅前)

 一五歳の六八二年に奈良にある大官大寺で得度して出家し、法行という名前になり、二四歳のときには高宮寺の高僧の徳光禅師により受戒します。さらに飛鳥寺や薬師寺で修行し、名前を行基としました。そこで指導をした僧侶の道昭は遣唐使として入唐し、インドから経典や仏像を中国へもたらした玄奘法師から指導されたことで有名な人物ですが、帰国してから各地で井戸の掘削や桟橋の構築をした人物で、それが行基の活動に影響しています。

 三六歳になって以後、母親と一緒に生活しながら奈良の一帯で修行しますが、四三歳になった七一一年に母親が死亡し、それを転機に行基集団と名付けられる僧俗混合の宗教集団を形成し、近畿地方を中心に貧民救済や治水工事など社会事業活動を開始するようになりました。しかし、この行基と弟子たちの活動が活発になってきたため、僧尼の宗教活動以外の活動を規制する「僧尼令」に違反するとして、七一七年に糾弾されてしまいます。

 それにもかかわらず、行基は平城京の各地で多数の人々を相手に説教するとともに、新田開発や灌漑事業を継続し、その活動が庶民だけではなく地域の豪族にも支持されるようになります。そのような時期に朝廷から二種の法令が発令されます。第一は七二二年の「良田一百万町歩開墾計画」です。現在の日本の農地面積は四五〇万町歩ですから、人口が約六〇〇万人の当時に一〇〇万町歩の開拓をすることが、いかに壮大な構想かが理解できます。

 背景にあるのは人口が増加しはじめ食糧が不足気味になりつつあったことや、東北など辺境の土地での国防のために財源を必要とした当時の事情です。しかし建設機械も存在せず、人手しか労力のない時代に号令だけでは開拓は進行しないため、翌年に朝廷が発布したのが「三世一身法」という法令です。新田を開墾した場合、開墾した人間の三世代先まで田畑の私有を許可する制度です。これは行基の活動にとっては追風でした。

 さらに行基は平城京の周辺で数千人の民衆を相手に説教をするなど活動していましたが、それが朝廷に歯向かうような意図ではないことが次第に判明してきたため、朝廷は新田開発や治水事業に行基の能力を利用する方向に転換します。そして七三六年にインド出身の僧侶の菩提僊那が来日したときには行基が出迎えて平城京を案内して対応したため、七三八年には行基は「行基大徳」という称号まで授与されるようになりました。

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