
清々しき人々 第14回 家老で画家の 蠣崎波響(1764-1826)
日本の先住民族アイヌ
世界には先住民族と名付けられる人々が存在します。国際連合は一九九二年に「外部の地域から異質の文化をもつ異質の人々が到来し、地元住民を支配し圧倒して人口を減少させ、非支配的な立場や植民地的状況にしてしまった時代に、現在の地域に生活していた人々の現存する子孫」と定義しています。要約すれば、外部から侵入した人々によって支配されるような状況になってしまった民族で、現在、世界七〇カ国に約五億人が存在します。
筆者は二〇〇四年に南米大陸南端のプエルト・ウィリアムスという寒村を訪問したことがあります。そこにはアジア大陸から北米・南米大陸を経由して約六〇〇〇年前に到達したヤーガンという先住民族が生活していましたが、侵入してきたヨーロッパの人々に駆逐され、純血のヤーガンの最後の一人だけが生存していました。しかし今年二月にその一人が死亡しました。世界では過去五〇〇年程度の期間に、このような事態が発生してきたのです。
日本ではアイヌ民族が定義に該当し、かつては蝦夷という呼称で北海道内から千島列島や樺太にかけて生活していました。しかし室町時代から戦国時代にかけて渡島半島の南端に和人の蠣崎一族が政権を確立し、豊臣秀吉と徳川家康からアイヌの人々と交易する権利の独占を認定され、松前藩が成立します。各藩はコメの石高により領地が確定しますが、当時の道内ではコメが栽培できなかったため、交易の権利だけが付与されていました。
そこで収益増大のためアイヌの人々と過酷な交易をしてきた結果、一六六九(寛文九)年に東蝦夷地を拠点とするシャクシャインを首長とする一族が反乱し、四〇〇人にもなる和人が殺戮される騒乱になりました。しかし騒乱は鎮圧され、蝦夷地内におけるアイヌ民族の勢力が衰退していきます。さらに一九世紀になるとロシアが南下するようになったため北方の防備が重要になり、一八〇七(文化四)年には幕府が全域を直轄することになります。
そのため松前藩は陸奥の梁川(現在の福島県伊達市)に九〇〇〇石を拝領して転封になりました。しかし一八二一(文政四)年には再度、松前に復帰、城郭(福山城)を建造しますが、一八五五(安政二)年にロシアと日露和親条約が締結されて箱館が開港されたため、出羽の東根(現在の山形県東根市)の領地を追加して柳川に転封するというめまぐるしい移動を経験します。このような動乱の時期に松前藩の家老であったのが蠣崎波響です。