• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

中島 ノブユキさん(音楽家)

音楽を志したのはいつ頃

 はじめ、父は私に家業の文房具屋を継がせようと決めていたんです。小さい頃から、家を継ぐか、さもなければ医者になれ、の一点張りで。そんな親の期待を背負って小学校のころは良かった私の通知表も、中学、高校と進むに従って調子を落としていき、高校も半ばを過ぎるころになると、もう父もすっかり医者の方は諦めた様子でした。当の私はといえば、相変わらず中、高もマイペースに音楽の勉強を続けていて、その頃にはただピアノを弾くというのだけではなく、編曲や作曲にも少しづつ興味が生まれていました。

将来を掴んだ成り行きは

 「音楽をやりたい」そう言って頭を下げたものの、父は頑として譲らず、半ばけんか腰の平行線がしばらく続いていました。そんなモヤモヤを抱えた高校1年の冬のある朝、その日も通学路を自転車で急いでいました。眼下には国道18号線の下り坂が広がり、路肩に溶け残る雪が視界の端を次々に飛び去っていきます。すると、突然、雪塊を割って、トラックが横道からぬっと姿を現しました。とっさに切るハンドル—―、しかし急な方向転換にタイヤを滑らせた自転車は一瞬宙に浮んだ後、私の身体ごと道路の真ん中に打ちつけられるように倒れました。

(死んだ――)。瞬間、私は絶望を感じて固く目を瞑りました。今は朝の8時15分……、いつもなら激しく雪埃を巻いてトラックが往来する時刻です。しかし、死を覚悟してつむった目が次の瞬間に見たのは、ただ静寂でした。倒れてから起き上がるまでの間、車はただの一台も通らなかったんです。まさに奇跡でした。鈍くまわる頭で近くの公衆電話を探し、やっとダイヤルを回すと、父の声が聞こえました。その日学校から帰ると父が神妙な面持ちで待っていて。「お前は一度死んだんだから、好きな事をやればいい……」ひとことそう言って。

大学は日大芸術学部に進みます

 私がどこの学校にしようかと迷っていると、音楽の先生が「こういう学校があるが受けてみるか」とパンフレットを手渡してくれたんです。それが日大藝術学部学部の夏期講習案内で。よく分からなかったけどとにかく行ってみることにした。そこで峰村澄子先生に出会い、師事することになって。それからは毎週日曜日に東京の先生の自宅まで電車で通って。母に、「行く前は疲れているけど帰ってくると元気になってる」っていつも言われていましたね。

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