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清々しき人々 第16回 女性の科学への道筋を開拓した エレン・スワロウ・リチャーズ(1842-1911)

 エレンは小柄で病弱でしたが、田園生活の効果で次第に健康になっていきます。両親は子供を地域の学校には通学させず、一六歳まで家庭で教育をしていましたが、エレンが一七歳になったときに隣町のウェストフォードに引越して商店を開業し、エレンをウェストフォード・アカデミーに入学させました。エレンが卒業すると一家はさらにリトルトンに移転し、父親は商店を経営し、エレンも手伝いながら地元の学校で教師になります(図2)。

図2 1864年頃

 しかし、このような生活に満足しなかったエレンは二三歳になった一八六五年に両親から独立してウースターという都市に移住し、様々な仕事をしながら質素な生活をして高度な教育の機会のために貯蓄をします。当時、女性が入学できる大学は存在しませんでしたが、資金に余裕のある醸造業者M・ヴァッサーがニューヨークのポキプシーにヴァッサー大学を設立しているという情報を入手し、単身、ポキプシーに移住しました。

 すでに二六歳であったエレンは特別学生として第三学年に入学を許可されましたが、当時の社会には女性が高度な教育を享受することに賛成ではない風潮があり、服装や態度も制約され、学外での行動にも干渉され、授業も高度な内容ではなく、エレンは両親に「学校は十分に勉強させてくれません」と手紙を送付しているほどでした。しかし、彼女の能力は頭抜けており、一八七〇年に首席で卒業し、学士の称号を授与されます。

一九世紀に創設された名門大学

 エレンが大学で勉強していた一八六〇年代はアメリカの巨大な転換時期でした。一八六五年に南北戦争が終戦となり、社会での女性や黒人の地位向上運動が芽生えはじめたのですが、教育や研究の分野の解放は進展していませんでした。そのためエレンは卒業したものの教職の仕事もなく、父親の仕事を手伝う生活をしていました。そこでボストンの化学薬品会社に就職の相談をしたところ、新設のマサチュセッツ工科大学(MIT)に打診することを推奨されました。

 アメリカ東部のアイヴィ・リーグと総称される名門大学の大半は一八世紀に創設されていますが、MITは一八六〇年代に創設されたばかりでした。そこでエレンはMITに入学許可の依頼の手紙を送付したところ、一八七〇年一二月に化学学科に特別学生として学費も免除して入学を許可するという返信が到達しました。こうしてエレンは自然科学分野の大学に入学した世界最初の女子学生になったのです。

 大学でただ一人の女性としての生活では、服装や態度を目立たないようにするなど数多くの苦労がありました。そのような日常の連続から体調不良になってしまい、短期の帰省をしますが、そこで悲劇が発生しました。実家に到着した直後に父親が列車にはねられて死亡してしまったのです。そこで病弱の母親の世話をするため、ボストンから六〇キロメートル西方のウースターにある実家とを往復して研究生活を継続しました。

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