高田 知己さん(弁護士)

運命の日

 76年に一度、ハレー彗星は地球に接近する――。世紀の一大イベントを控えた昭和61年の春、高校を卒業した高田さんは、大学進学に向けて早々に予備校を決めると、勉強、アルバイト、遊びの日々を送っていた。

 その日は水戸にほど近い港から夜半にフェリーで出航し、ハレー彗星を観測するツアーの手伝いの仕事が入っていた。準備のため、昼にはバイクにまたがり給油を済ませると、ハンドルを県道179号線に向ける……、それが事故の前、最後の記憶となった。

 次に意識が回復したとき、瞼には漆黒が広がっていた……。高田さんには事故当時の記憶がない。翌日、あまりの痛みに堪え兼ねるように意識を取り戻してからも、どこが動く、動かないということよりは、「ただ苦しい」というのが率直な感想だった。

 それまで大病を患った経験もなければ、骨折すら一度もない。もう足が動かないだろう、などというような考えは微塵も頭をよぎらなかった。

 事故からひと月経って、脊髄の再建手術をうけるため、救急搬送された水戸中央病院から都内の九段坂病院に転院した。手術すれば、すぐに治るだろう……、そんな期待が諦めに変わり始めたのは、半年を過ぎたあたりのことだ。

 脊髄に回復の兆しのないことを医師から告げられると、否応無しに暗い未来が頭に渦を巻き始める。そんな不安を追い払おうとするように、高田さんはリハビリに没頭した。だが、術後間もない身体は、少しの運動ですぐに高熱を発した。一体、自分の体はどうなってしまったのか……、いまや遠く霞む過去の自分。その視界は未来はおろか現在も満足に捉える事はできなかった。

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