• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

ウスビ・サコさん(教育者)

高校ではどんな生活を

 私の通った高校は、首都にある植民地時代にフランスが作ったエリートエンジニアの養成校でね。トップクラスの成績を取っていると、海外留学に出されるんです。要は、国費で海外研修に行って、帰って国家公務員になるという仕組みですね。

 で、私はと言えば、実家に戻ってまず田舎とのギャップに打たれていた。冷蔵庫はある、飲みたい時に水が飲める、様々の商業施設が立ち並ぶ……、もう別世界ですよ。高校に行けば、都会の学校の出身者たちがお洒落を振りまいていてね。それらをなんとかキャッチアップしようとしたもんだから、一年目はすっかり成績が落ち込んでしまった。

 でもそうするとまたあの居候たちの家庭内会議が始まるわけです。

「よく小学校中学校で天才と言われて、高校に入るとやっぱり違ったと言われるヤツがいるがコイツはその典型だ」「このままこの学校に残すよりいっそ普通の高校に転校させた方がいいんじゃないか……」

 と、次々に訳の分からない口出しをしてくる。いや、アンタら勉強してへんやん、大体、私がどういう状況か分かるのか、って思ってね(笑)。

 で、そこからまた挽回して。勉強を頑張れたのは仲間の存在が大きかったですね。私のいない間も、数人の仲間はずっと家に寝泊まりしていたんです。このときも一緒に過去問を解いたりして、支え合った。彼らは今、国の要職を担っていて友情は今も続いています。

高校卒業後は中国に留学を

 留学試験の結果は、手紙ではいつ届くかわからないので、国営ラジオで発表されるんです。ただこれも弊害があって親戚が聞きつけてやってくるんですよ。で、次々に餞別を手渡してくるんですが、このときのことで帰国のたびに「お土産は」って聞いてくる。自分が渡したんだからお前もよこせというわけですね。絶対自分が何を渡したかも覚えてないのに(笑)。

 中国に留学してまず驚いたのは、その数ですね。留学生だけで800人もいて、そのほとんどがアメリカや日本、ヨーロッパの学生だった。私たちアフリカ人はマイノリティです。アメリカや日本の学生は多くが短期留学で、大体半年から2年くらいのサイクルで入れ替わる。私はといえば本科5年ということで来ていた。

 そんな多様な人種と交わる中で気づいたのが、例えば、同じアフリカであっても自国以外のことって意外と知らないということです。トーゴやベナンがどんな国なのかと言われても全く知らないし、カメルーン人と話して、じゃあこれがカメルーン人かと思っても、地域や民族によって全く違う。それこそ言語から食文化に至るまで違うわけです。

 そんな多様性の中で、「はじめて自分て何なんだろう」と思った。というのも自分の当たり前が通じないんですよね。「マリでは」とは言えないし「アフリカでは」とも言えない。フランス語が通じるのもわずかな人たちだけです。そこではじめて英語を勉強して。

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