清々しき人々 第17回 近代の女子教育に尽力した 下田歌子(1854-1936)

皇后の女官に出世

 明治維新となって一家の立場は好転し、明治四(一八七一)年に祖父と父親は明治政府に出仕することになり、一六歳であった歌子も一緒に上京します。この道中でも芸術の能力を発揮し、美濃から三河への国境にある三国山越えをするとき「綾錦/着て帰らずば/三国山/またふたたびは/越えじとぞ思う」という和歌を記録しています。東京で立派に成功しなければ帰郷はしないという決意を表明した内容で、現在、山頂には歌碑が建立されています。

 東京では漢籍や古典は祖父から、和歌は八田知紀などから指導され能力を向上させていきますが、それらの人々の推挙により歌子は明治天皇の皇后に仕える女官に推挙されます。そのときの覚悟を表現した和歌が「敷島の/道をそれとも/わかぬ身に/かしこく渡る/雲のかけはし」でした。このような才能を皇后に評価され「歌子」という名前を下賜され、さらに皇后の学事に陪席も許可され、その結果、多数の人々との親交が進展していきました。

 二五歳になった明治一二(一八七九)年に歌子は剣客として有名な丸亀藩士であった下田猛雄と結婚し、宮中から退出します。しかし猛雄が病気になり生活に苦労しますが、宮中での活動が上流社会に伝播しており、子女教育の人材を探索していた政府高官が歌子に注目します。そこで歌子は政府要人の支援により「桃夭(トウヨウ)学校」を開設し、上流階級の子女の教育を開始します。桃夭は桃の若木のような女性を育成することを表現した言葉です。

 明治一七(一八八四)年に猛雄が死亡しますが、翌年、皇后の意向により上流階級の子女の教育のための「華族女学校(学習院女学部)」が創設され、歌子は教授に任命され、さらに翌年には学監となって校長を補佐することになりました(図1)。しかし一方で困難にも直面します。弟に出版会社を開業させ、自身で編集した『小学読本』を出版しますが、ある議員の画策により学校での採用を拒否され膨大な借金を背負ってしまったのです。

図1 下田歌子(1886年頃)
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