• 十代の地図帳
  • 青春の記憶に生きるヒントを訊くインタビュー記事

はなさん(モデル・タレント)

初めて日本のコミュニティに参加したのはいつごろ

 空手を習い始めてからですね。それまでも近所の子たちと交流はあったけど、そこで初めて日本語しか話さない友達が出来て。6歳までを中華街で暮らし、そこからほど近い元町に移りましたが、それでも毎週日曜日には、きまって中華街にある祖母の家に親戚一同が集まったから、中華街の空気は変わらず生活の中にありました。空手の道場は、そんな中華街の中華学校の中にあったんです。そういう意味では、空手も生活の一部のような感覚でしたね。

日本語だけの空手教室にカルチャーショックのようなものは

 インターナショナル・スクールで学んでいると色んな国の子がいるんです。当然、日本人の生徒もいるので、そういう意味ではあまり違和感はなかったですね。

 ただ、学校では普段から2カ国語で話したりしていたので、「日本語だけ」というのは、少し新鮮だったかな。でも、なにより衝撃だったのは、空手の指導でしたね。授業の前には必ず「般若心経」を唱えなきゃいけなかったり、板張りの床の上で正座させられて竹刀で叩かれたり、滝に打たれたり……。辛かったけど、5年間続けたおかげで我慢強くなりました。

芸能界入りはいつ

 16のときです。インターナショナル・スクールには、3カ月の休みがあるんです。休みに入って最初のひと月は、夏期講習やプール通いで忙しいんですが、大抵2カ月目には、もう家で寝そべってばかりいる。見かねた母が、「そのままじゃ『家ダニ』になる。何かしなさい」って(笑い)。それで、モデルをしていた従妹の紹介で芸能事務所に入ったんです。

 でもその当時、『ノストラダムスの大予言』が凄く流行っていて、私もすっかり信じ込んでいた。「自分は27歳で死ぬんだ」って思い込んでいたんです。だから、その頃の人生設計は、割と27歳までのもので彩られていて(笑い)。

当時描いた将来の夢は

 親の後押しもあって、せっかく英語を話す環境にいるし、フランス語もできる。だから自然と「言葉を仕事にしたいな」と思っていました。そうですね、通訳とか……。ザックリとですが、何かそういう仕事でバリバリ働いている自分を思い描いていました。

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