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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第23回 次々と画風を転換した異才・司馬江漢(1747-1818)

生前に遺言を公開した奇人

 生前に遺言を用意する人々は多数存在します。ダイナマイトの開発により巨額の資産を蓄積したA・ノーベルは死亡する約一年前の遺書にノーベル賞の創設を記載しており、それが現在まで忠実に実行されています。イギリス国籍の学者J・スミソニアンは一度もアメリカを訪問したことがありませんでしたが、首都ワシントンにスミソニアン協会を設立するために遺産を寄贈すると遺言し、それによって博物館群が実現しました。

 しかし死亡する以前に遺言を公開する人物は例外ですが、死亡の六年以前に遺言を記載しただけではなく、それを何人かの友人に送付し、そのまま世間から隠遁してしまった有名な人物がいます。あるときどうしても出掛けなければいけない用事があって外出したところ知人に出会ってしまいました。驚嘆した知人が挨拶したところ「死人は発言しない」の一言で遠去かっていきました。今回は、この風変わりな人物を紹介します。

浮世絵師春信の代筆として活躍

 この人物の本名は安藤吉次郎、世間では司馬江漢という名前で有名な江戸時代の画家かつ学者です。一七四七(延享四)年に江戸の四谷で町人の家庭に誕生しましたが、後年、芝新銭座に移転しています。司馬という名前はその町名に由来するとされています。一五歳になった一七六一(宝暦一一)年に父親が死亡したため、母一人子一人の生活をし、母親が一七七二(安永元)年に死亡するまでは独身で生活していました。

 父親の死亡を契機に駿河台狩野派の絵師狩野美信(洞春)の弟子になりますが、画法が自分の趣旨に一致しないと判断、一九歳になった一七六六(明和三)年に浮世絵師鈴木春信の弟子になります。春信は一七六〇(宝暦一〇)年から役者絵を発表して人気絵師になり、浮世絵に多大な影響をもたらした人物です(図1)。そこでは春重という名前で仕事を手伝っていましたが、一七七〇(明和七)年に春信が四五歳で死亡してしまいます。

図1 鈴木春信「中納言朝忠」

 当時二四歳であった江漢は版元の要請もあり春信の画風を継承し、落款も春信とした美人画を制作しますが、女性の容姿は当然として、画面の上部に雲形を配置し、そこに『古今和歌集』や『千載和歌集』など古典から抜粋した和歌を表示する形式も踏襲し、一見では春信と見分けがつかないような作品を数多く制作しています。しかし、そのような既存の画風を模倣することに満足できない江漢はさらなる前進をします。

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