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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第24回 将軍徳川綱吉に二度拝謁した ケンペル(1651‐1716)

 その処刑の直後にケンペルはハーメルンに移住し、さらに何度か生活場所を移転しながら二二歳になった一六七三年に大学の卒業論文に相当する論文を執筆し、様々な都市で生活しながらポーランドの歴史のある都市クラカウで医学と哲学を習得します。一六八一年にスウェーデンに移住しますが、ここで人生の転機に遭遇しました。経緯は不明ですが、スウェーデン国王がペルシャに派遣する使節団の秘書官に採用されたのです。

二年かけてホルムズ海峡に到達

 一六八三年三月下旬にストックホルムを出発した一行は春先の雪解けの地面に難渋しながらも四月下旬にロシアのニエンに到達します。ここは後にロシア帝国のピュートル一世がロシア帝国の首都サンクト・ペテルブルクとした場所です。当時はスウェーデンの領土であったため、ここでロシアへ入国する手続きをします。一ヶ月以上もかかりましたが許可を取得し、六月になって出発、七月にモスクワに到着しました。

 二ヶ月間滞在したモスクワを九月に出発、カスピ海北岸のアストラハンに到達します。ここから湖上を移動し、年末からペルシャの領土にあるシュマハに三ヶ月も滞在することになりますが、ケンペルの治療が評判になって人々が殺到したからです。ようやく翌年一月にカスピ海に突出した半島にあるバクーに移動します。現在はアゼルバイジャンの首都で人口五〇〇万人の都市ですが、当時でも一〇〇万人以上の巨大都市でした。

 バクーからは南下して当時のペルシャ帝国の首都イスファハンに到着しましたが、国王に拝謁するためには四ヶ月の待機が必要でした。ようやく豪華な拝謁の式典が挙行されましたが、隊長以下は当分、首都に滞在するため、ケンペルは一六八五年一一月に一〇〇〇キロメートル南方のホルムズ湾岸の都市バンダレ・アッバースを目指して出発し、途中でペルセポリスの遺跡のあるシラーズを経由して年末に到着しました。

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