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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第25回 騒乱の時代に歌人となった武士・西行(1118‐90)

北面武士から僧侶へ転向

 出家する以前の俗名が佐藤義清の西行は武士であり、天皇を警護する役職であった佐藤康清の子供として一一一八(元永元)年に誕生しました。天皇から紀伊国田仲荘(現在の和歌山県紀の川市)を領地として付与されており、そこで西行は誕生したと推定されています。一一三五(保延元)年からは北面武士として出仕します。その時期には平治の乱に勝利して太政大臣になる同年の平清盛も北面武士として出仕していました。

 ところが六年が経過した一一四〇(保延六)年に突然、義清は出家して西行と名乗るようになります。二三歳でした、その動機には諸説ありますが、親友が死亡したという理由や、高貴な女性に失恋したという理由が推定されています。さらに仏教への信仰が社会に流行していたことも影響しているかもしれません。当時、仏法は王法より上位にある、すなわち仏教は政治より重要であるとされ、僧侶は関所の通行も自由でした。

 実際、一一二四(保安五)年に白河法皇は高野山に行幸しているし、翌年には鳥羽上皇などとともに熊野大社にも参詣しています。さらに帰幸の直後には殺生の厳禁を発令します。一一二七(大治二)年には再度、法皇と上皇は高野山に行幸しています。このような社会の風潮とともに、平忠盛が瀬戸内海の海賊の首領を逮捕する功績があり、その子供で西行と同業の清盛が出世したことも出家に影響したのかもしれません。

 さらに西行に影響をもたらしたのが京都の嵐山にある法輪寺に空仁という僧侶を訪問したことです。連歌の達人でもあり素晴らしい人柄にも魅了され、何度も訪問するうちに出家の意思を堅固にしていきます。そして「惜しむとて/惜しまれぬべき/この世かは/身を捨ててこそ/身をも助けめ」という覚悟を表明した一首とともに一一四〇年一〇月に出家し、年末から鞍馬の奥地に生活するようになります。

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