清々しき人々 第28回 近代日本の社会基盤を整備した 前島 蜜(1835−1919)

動乱の幕末

 一八世紀になり産業革命と社会革命を遂行して近代国家としての体制を整備した欧米諸国は極東の国々に進出すべく、帆船や汽船で次々と東洋へ接近してきました。ある調査では、一八世紀の後半から一九世紀の中頃までに日本列島の周辺に出没した外国の船舶は記録されているだけでも一〇〇隻以上になっていますし、その一部は強引に箱館、長崎、下田、浦賀などの港湾に入港し、上陸の許可を要求するようになります。

 江戸幕府は一八二五(文政八)年に「外国船打払令」により排斥しようとしますが開国の圧力には対抗できず、日米和親条約(一八五四)や五カ国との修好通商条約(一八五八)によって一部の港湾への入港を許可することになります。このような事態から欧米諸国の実情を調査すべく、江戸幕府は一八六〇(万延元)年の遣米使節(図1)を皮切りに明治維新までの数年で五回の使節を派遣し、西欧諸国の実情を調査しはじめました。

図1 アメリカに到達した万延遣米使節(1860)

 さらに薩摩や長州など一部の雄藩は独自に藩士を海外に留学させて実情を調査しますが、彼我の格差を痛切に実感することになりました。しかし、しばらくは明治維新への内乱が多発して国内が混乱し、一旦は外国との交流は減少しますが、明治政府の成立とともに欧米諸国が近代国家になる基礎となった制度や技術を導入する努力を開始します。その役割を見事に実行した一人である前島密(ひそか)を今回は紹介します。

母親の薫陶

 前島密は江戸末期の一八三五(天保六)年に越後国頸城(くびき)郡下池部村(新潟県上越市下池部)の豪農である上野助右衛門の次男として誕生し、上野房五郎と名付けられました。しかし、前島が誕生した年に父親が病没したため、前島が四歳になったとき、母親ていは子供とともに自身の出身の高田に移動し、裁縫などの内職をしながら家計を維持し、実家にあった錦絵や書物などを使用して子供を教育します。

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