清々しき人々 第35回 高齢社会の手本となる貝原益軒(1630−1714)

藩士として業績のあった人物

 貝原益軒は生涯に約六〇部(二七〇余巻)の書物を執筆しているため、作家のように理解されています。実際、菩提寺である福岡市中央区の金龍寺の境内の彫像は書籍を山積みにした座机の前面に正座する坐像であり、作家の風格です(図1)。しかし現実には一八歳から七〇歳まで筑前国福岡藩(黒田藩)に出仕した武士であり、書物の大半は引退して自由になってから執筆したもので、見事な複線の人生を達成した人物です。

図1 貝原益軒坐像(金龍寺)

 一六三〇(寛永七)年に福岡藩士の貝原寛斎の五男の篤信として誕生し、一八歳で福岡藩に出仕しますが、第二代藩主黒田忠之から勘当されて浪人になってしまいます。七年が経過して二七歳になった一六五六(明暦二)年、第三代藩主黒田光之によって勘当が解除されて帰藩が許可され、翌年から藩費によって京都へ留学し、本草学や朱子学を勉強するとともに、木下順庵、山崎闇斎など著名な学者と交遊するようになります。

 七年間の留学を終了して一六六四(寛文四)年に帰藩し、一五〇石の知行を付与されますが、行政能力が優秀であったようで、藩内で藩士の教育をするだけではなく、一六八二(天和二)年に李氏朝鮮から徳川幕府への外交使節団である朝鮮通信使(図2)が藩内を通過するときの応接や隣接する佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど政治能力を発揮しています。さらに『黒田家譜』を編纂するなど学者としても能力を発揮しました。

図2 朝鮮通信使
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