柳家 わさびさん(落語家)
落語に生きる
その日は新入生に向けた部活の一斉紹介の日だった。入ると、すでに若い肉体で満ちる体育館には、芸術系の大学特有の空気が漲っている。そんな粘りつくその空気を切り裂くように、壇上にはマイクを握り司会を務めるひとりの先輩がいた。テンポ、間、メリハリ……、実に巧みな話術を駆使し、先輩は聴衆の耳をひきつける。こんな人がいるんだ――聞けば落語研究会(以下落研)の川上先輩だという。落研ってこんなに面白いのか……、それまで落語と言えば、CDショップの片隅に演歌と並んでおいてある、その程度の認識だった。若者には縁のない老人の楽しむもの……。こうして青年は油絵学科から落研という異色の道に歩み込んでいった。入ってみると落語は実に新鮮な世界だった。ふだん書く油絵は、完成こそすれば作品は日の目を見るものの、ほとんどの面でいわゆる裏方の作業が続く。その点落語は、最初から自分自身が表舞台に立つのだ。その刺激、新しさ――若い心が完全に虜にされるのに時間はかからなかった。
落語の世界はまず師匠を決め、弟子入りすることから始まる。弟子にとって師匠は、第二の親であり絶対の存在だ。当然、どんな落語家に師事するかで、大きく結果は変わる。修行を積みながら、前座、二つ目、そして真打ち、と進んで行くのだが、この前座から二つ目にあがるときに、とくに違いが鮮明になる。入門からすぐ落語の稽古をはじめる師匠のもとにつけば、いきなり上手い落語を披露できるが、師匠が人間性をひたすらに鍛えるタイプだと、ここで遅れをとることになるのだ。それは寄せに集まる客の反応からも明らかだ。わさび青年が師事したのは柳家さん生師匠……、落研の技術顧問に来たのを縁に弟子入りを決めたが、気遣いを重点的に教えるいわゆる後者のタイプ。青年もやはりその壁に苦しむことになる。それでも、振り返ればこうも思う。
「落語のうまい人は笑わすのは上手いんですよ。でもどこか人情話になると重みがないんです。柳家小三治師匠が『芸は人なり』と言われていますが最終的に大事なのは人間性なんですね。長い目で見ていくとさん生師匠に鍛えられて本当に良かったなと思います」