岡部 三知代さん(学芸員)

 ところが、寒冷地はとても高度で細やかな建築の知識、技術を必要とする。ベテランで鳴らす現場の所長も辟易するような設計に、若い建築家は大目玉を喰らった。自然循環、アースカラー(自然本来の美しい色彩)、今でこそ、知られるようになったが、当時は、そういった概念は理解されない。先日、久々に再会した所長は、当時の話に少し照れくさそうに頭をかいた。思えばあの頃、進歩的、漸進なアイディアを臆すことなく、ぶつけ、ぶつかっていた。不恰好でもなんでも、信念を持ち、やってきたから今がある。女性の少ない職場ではあったが、現場は概ね、和気藹々としていた。女性にも積極的にチャレンジしてもらおうと、様々な仕事にも抜擢され、どこか一つの家族のように感じることもあった。

 だが、働き始めて十年が過ぎる頃になると、大きすぎるプロジェクトと家庭の間で、歯車が軋み始める。チーム力が試される建築の仕事は、時に深夜まで就業時間が及ぶ。ひとり目、二人目と子供を生み、育てるにつれて、保育園と就業時間のズレにどんどんと苦しさが増していった。それでもなんとか粘り強く仕事を続けるが、チームの仲間と共有する時間も次第に少なくなり、徐々に追い詰められていった。2004年、上司の異動に伴い、建築現場を外されることになった。悩む背中に、本社ビル移転とそれに伴うギャラリー開設の情報が飛び込んできた。〈ギャラリー担当者は社内公募〉告知の下の一文は、いつまでも脳裏に残って、消えなかった。

学芸員として生きる

「岡部さん、やってみたら」ギャラリー担当者のその何気ない一言を、一にも二にもなく受け取り応募したのは、なぜだったのだろうか。二人の子供はまだ小さく手がかかる。そんなときに、業務内容も分からないその仕事をとにかくやってみようと思ったのは、自分なりに建築表現の場を、現場とは違う新たな地平に見たい、そんな思いもあったのかもしれない。『竹中工務店』という大きな看板を背負いながらも、またそれとは少し違うテイストを求める自分らしさを見せられるかもしれない、そんな希望的な観測もあった。結果としてこの選択は転機となるのだが、応募者は岡部さんただ一人だった。

 ギャラリーで働くようになると、それまで、〈尖りすぎ〉といった理由で受け入れられなかった提案が、しっかりと汲み取られるのを感じた。それは仕事面だけではなく、ハンディと感じていた家庭の事情にも及んだ。とりわけ大きかったのは、長らく、〝自分は社内のマイノリティ″と肩身狭く過ごした会社の中での母親としての目線、家庭人としての目線が、顧客の視点に立つ上では非常に役に立ったことだ。「やってみなければわからないものですね」当時を振り返って、そう微笑んだ。

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