木原 実さん(気象予報士)

 3畳一間のその部屋は、さながら演劇の情熱を詰め込んだ箱船だった。仲間と語らい、思うさま演芸に没入する日々……。卒業しても夢を追い続けたい、就職はしない――そう話すと、父は半ば呆れながら、大学まで出したんだ、もう過度な協力は出来ない。それでもやるならやればいい、と言葉を放る。だが青年はひるまない。先が見えない不安も、若さと、夢が軽々と吹き飛ばす。昼間アルバイトをし、夕方から稽古、夜には小劇場の舞台に立つ。赤字にならないよう劇団員総出でチケットを手売りする。それでもなんとか舞台終わりに安居酒屋で打ち上げするぐらいは手元に残った。

 芝居で生きていくのは本当に難しい。星の数ほどの役者の中でも、それだけで食べられる人間はほとんどいない。諦める気は毛頭ないが、現実の厳しさは否応なく、毎日の生活にのしかかった。そんなある日、役者仲間の一人に、もっと割の良い仕事もしなよ、と声優の仕事を薦められた。ラーメン屋のバイトよりもギャラもいいし、それで稼いで芝居やればいいじゃない――。そう言って、友人は声優・神谷明さんを紹介してくれた。こうして北斗の拳やキン肉マンで知られる大物声優の付き人に迎えられると、声優、リポーターなど少しずつテレビの仕事も増え始めた。テレビ局がお天気キャスターを探している。近くオーディションがある。その話を神谷さんから聞いたのはこの頃のことだ。「行っといで。」柔和な顔に送り出されて踏み出した一歩は、今に続く道になる。

天気予報に命を吹き込む

 1995年になり気象予報士制度が国家資格になり施行されると、すぐに周囲からは資格を取得するよう促された。なにしろ86年に天気予報をはじめたのだ。一通りのことは憶えている。とはいえ相手は国家資格、簡単ではない。大学受験以来の試験勉強に懸命に取り組むと、見事合格。晴れて正式に気象予報士になった。数少ない気象予報士はたちまち引っ張りだこに。朝の生放送が週に4日、夕方の帯番組が週5日。気象予報士の仕事は、テレビに出るだけではない。台本を書き、画面も発注する。堅苦しい気象学を一般視聴者に分かりやすく構成し、画面を明るく、面白くするネタを探すのだ。それを生放送で喋り、今まで通り天気予報もこなす。気象予報士になったんだ。今までより詳しく天気を伝えられるよな――周囲から寄せられる期待に、朝2時から夜半まで休みなく懸命に食い下がる日々が1年間続いた。

 また同じ頃、阪神淡路大震災が起こった。未曾有の災害に、国は、防災、減災を目指し『防災士』という新たな組織を設けた。地震のことも勉強するには良いのかもしれない――。木原さんもすぐに資格を取得する。するとその後も休む間も無く、日本は大災害に見舞われた。中越地震、東日本大震災……そして熊本の震災。災害の死因の多くが圧死だ。崩れ落ちる建物からいかに身を守るか、災害が起きたまさにその瞬間の身の守りを伝えるのが防災士の最大のテーマである。熊本震災、木原さんは、家を失い、車中泊する人たちへ向け、エコノミークラス症候群(長時間同じ姿勢を続けると発症する静脈血栓塞栓症)の危険性を訴えた。全国ネットと地元テレビが連携したことで、少しでも現地に声が届いていれば……。噛み締めるように被災地を思い遣った。

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