松岡 和子さん(翻訳家)

 転機は、出版社に勤める妹が持ってきた仕事だった。上智大学の現代美術の教授に依頼したエッセイが上がってきたが、翻訳者が見つからない、「お姉さん、やってくれない?」その頃の松岡さんは結婚して妊娠中だったが、大学院の勉強の合間に出来ないことはない。やってみると評判は悪くなく、特に当の教授が気に入ってくれたという。以来、他の翻訳の仕事も頼まれるようになり、美術関係の仕事は着実に広がっていった。そしてその後の劇書房との出会いがシェイクスピアとの因縁に決着をつけることになる。当時、名だたる海外テレビドラマ・シリーズを翻訳していた親戚の額田やえ子さんの推薦で、戯曲翻訳を手がけるようになったのだ。不思議なことに、依頼される戯曲の何本もがシェイクスピアがらみ。シェイクスピアに尻込みし、逃げた先の現代劇で再会したのは奇縁としか言いようがないが、兎にも角にも、必死にシェイクスピア劇の部分訳に取り組んだ。そして93年、ついに『夏の夜の夢』でシェイクスピア本体のオファーを受けるにいたるのだが、まず部分訳から作品全体へなんていう深謀遠慮は全くなかったのよ、そう言ってまた松岡さんは微笑した。振り返ればそこにシェイクスピアの欠片があったということ。人生を貫いたシェイクスピア、その魅力を次世代に繋ぐ一助に自分の翻訳がなってくれれば……それが松岡さんの一番の願いだ。

松岡 和子(まつおか・かずこ)昭和 17 年、旧満州生まれ。東京女子大学英文科卒業。東京大学大学院修士課程修了。翻訳家、演劇評論家として活躍する傍ら、東京医科歯科大学教養学部の英語教授を務める(平成9年、シェイクスピアの翻訳に専念するため退任)。シェイクスピア戯曲の新訳の他、『クラウド9』など訳書多数。著書に『深読みシェイクスピア』などがある。

(月刊MORGENarchives2021)

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