土井 敏邦さん(ジャーナリスト)

『福島は語る』――3・11から8年、いよいよ終結勧告を発される原発被災者の終わりなき苦悩を訴えたドキュメンタリー映画だ。メガホンを取るジャーナリスト・土井敏邦さんは、長期に渡り現地に逗留。100人を超える惨禍の跡を自らの目と耳と心で聞いた。劇中にあるのは、その中から選び抜かれた14人の魂の叫びだ。世界を放浪した大学時代、パレスチナで民族紛争に出会い、使命を感じた。弱者に寄り添う優しき心の在り様を聞いた。

3・11注目のきっかけは

 僕は、もともとパレスチナを専門にやってきた人間です。東日本大震災が起こったとき、周りの同業者はこぞって福島に向かった。それは当然なんだけど、僕は自分が行くのはどうも釈然としなかったんです。どうせ行くなら、「みんな行くから」じゃなくて、「自分じゃなきゃダメだから」と、納得して行きたい。でもじゃあ何故行くのか……、それが中々分かんなくてね。それで、実は震災直後に沖縄に行ったんです。沖縄に行くのは前から決めていて、というのも、沖縄の伊江島に阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんという農民運動家のリーダーがいて、それを取材することに決めていた。それで取材をするんだけど、やっぱり、世間の話題は東日本一色なわけです。遠く、南の地でテレビをつけても、もう、そればかりやっている。オレここで何やってんだろう……って不安になってくるんですね。それでもやっぱり、理由なしには動けない。そうやって悶々とするうち見つけたのが、「故郷を失う」という視点だった。

東北で何を見たのでしょう

 パレスチナにあったのは「人災」で故郷を追われた人たちだった。無数のパレスチナ人がイスラエル建国によって故郷を追われた。じゃあ東北はどうか。僕が最初、訪れたのは、陸前高田だった。海岸から放射状に広がる街には、あたり一面、瓦礫が散乱していて、ビルが一棟ポツンと立ったきり、他には何も残っていない。まさに原爆投下直後の広島といった様相です。その光景に、もちろん衝撃を受けるんだけど、でもこれは違うんです。これは「天災」なんですよ。パレスチナの「人災」とは違う。じゃあどこが同じかと言えば、やっぱりそれは福島なんです。中でもとりわけ飯館村に注目した。なんで飯館村かっていうと、原発事故後、当初は、飯館村にはまだ人が暮らしていた。それが汚染発覚と同時に、どんどん故郷を追われていった。牛の乳を搾っては、「これは飲めない」と、田んぼにあけた穴に捨てる……、そうやって生計が立たなくなり、一人、また一人と人が消えた。その様子が、人災で故郷を追われるパレスチナ人とピッタリ重なった。それで、『飯館村』を皮切りに3作の映画を続けざまに撮っていった。

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