土井 敏邦さん(ジャーナリスト)
『福島は語る』の着想は
3作の映画を撮り終え、さあ次は何をやろう、というときに、出会ったのが武藤類子さんら『福島原発告訴団』の集会だった。それまで飯館村をやっていたのだから、原発被害者の証言を聞くのは当然初めてではないんだけど、それでも衝撃だった。避難をきっかけに夫婦関係が悪くなり離婚したという女性、せっかく作った米が「福島産」という風評のせいで売れないと顔を歪める農夫……、会場となった豊島公会堂には800人あまりがつめかけていたけど、「こういう重要な証言を聞くのが、なぜ800人なんだ」そう思った。この声は今の日本人が全部聞かなくちゃいけない声だ――、焦燥に近い気持ちで周りを見回すと、テレビカメラの一台も来ていない。それを見て、じゃあオレがやるしかないか、と始めたのが今回の映画のきっかけなんです。
中には辛いインタビューも
映画を見て、一番、皆さんが「辛い」と感想をくれるのが『杉下初男さん』という石材屋さんなんです。震災で、築いてきた家、事業を失い、再起をかけて家を建て直した直後、今度は別の仮設住宅で暮らしていた頼りの息子をおそらく自死で失ってしまう。あのインタビューは本当に、僕にとっても「奇跡のインタビュー」というか。というのも、息子さんを失って一年余り、ずっとそのことを心に押し込めて決して語らなかったんですよ。それどころか涙すら見せなかった。息子の死と向き合えなかったんです。だから僕はずっと待ったんです。そうして1年と6カ月が過ぎたころ、時が来た。そのときにはもう、言葉が溢れて止まらなかった。普通、インタビューは聞き手も、受け手も、予め答えを決めておくことが多いんです。だから大抵理路整然とする。でもこのときは違った。言葉は本当に生のまま吐き出された。そんなのは、これまで30数年記者をやってきて初めてのことだったし、これからもないでしょう。話の間中、僕の頬を涙が伝い続けていた。
弱者に寄り添うルーツは
痛みに対する感性は、祖母がそういうのに敏感な人だったから、「祖母からもらったのかなァ……」と思うときもあるし、僕が挫折に次ぐ挫折の人生を歩んできたこともある。医者になることを諦め、その後もいわゆる世間並みの「良い会社」に入ることもできなかった。結婚も長くできなかったし、まともな人生を歩いてこれなかった。それがずっーと自分の中に劣等感のような痛みとしてあるわけですよ。それが核となって、どこか他者の痛みに同化してしまう。