高田 知己さん(弁護士)

 高田さんには事故当時の記憶がない。翌日、あまりの痛みに堪え兼ねるように意識を取り戻してからも、どこが動く、動かないということよりも、ただ苦しいというのが素直な感想だった。それまで大病を患う経験もなく、骨折すら一度もなかったのだ。もう足が動かないだろう、などという考えは微塵もよぎらなかった。事故から1ヶ月、脊髄再建手術をうけるため、救急搬送された水戸中央病院から、都内、九段坂病院に転院した。(手術すれば、すぐに治るだろう……)、そんな期待が諦めに変わり始めたのは、半年を過ぎたあたりだ。脊髄に回復の兆しのないことを医師から告げられ、否応無しに、自分の将来を頭に描き始める。だが、術後間もない身体は、少しの運動ですぐに高熱を発した。自分はどうなってしまったのか……、遠くかすむ過去の自分。その視界には、未来はおろか現在も満足に捉える事はできなかった。

最難関!司法試験を目指す

 どん底から見上げる空の雲間に光が射したのは、神奈川にあるリハビリステーションに転院してからのことだ。ここには、境涯を同じくする人々が、数多く通っていた。突発的な事故や病気で、下肢に不便を抱える彼らは、しかし、しっかりと社会生活を営んでいる。彼らと話し、食事をともにすると、閉ざされた世界が急速に広がるのを感じた。(そうか、バリアフリーの設備さえ整っていれば、どこへでも行けるんだ)、青年は新たな北極星を見つけると、大学進学を決意した。大学は常磐大学を選んだ。これは、ひとつには、バリアフリー完備であること、そして、なによりも近いということだった。

 この頃に描いていた未来図は公務員だ。障がい者枠があり、なにより、福利厚生に恵まれる。ところが、いざ入学してみると、にわかに(司法試験を受けたい)という気持ちが首をもたげた。大学の友人に司法試験志願者がいたことも大きかったが、浪人時代から友人たちと話し、意識していた司法試験が、途端に現実的な野望となって眼前にちらついてくる。(司法試験を受けるには、やはり法学部に入らなければ……)、青年は意を決すると、勉強を再開。見事に、法科の名門と誉れ高い、中央大学法学部に合格を果たしたのだった。

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