岡村 幸宣さん(学芸員)
埼玉県東松山駅から少し車を走らせると、青々とした木々の緑を背に『原爆の図丸木美術館』が見えてくる。原爆投下後の広島に衝撃を受けた画家の丸木夫妻が生涯をかけた建屋はあまりにも有名だが、コロナ禍の波紋は例外なく、この自然と和合する学び舎にも訪れた。危機と再生、そしてこれから……、切り盛りに奔走するのは学芸員・専務理事の岡村幸宣さん。平和の聖地の今を訪ねた。
美術館との出会いは
最初に来たのは学生のときです。その頃は美術大学に通っていて、学芸員の実習でここを訪れた。それからなんとなくボランティアで繋がっていたんですが、最初、ここで働こうとは全く思っていなかった。退屈だろうと思いました(笑い)。そう思って一度お断りしたりもしていた。「ここで働かないか」って言われて「イヤです」ってね(笑い)。でも、ここが面白い場所だっていうのはなんとなく分かっていて……。何が面白かったかと言えば、僕が学生だった90年代は日本がまだ裕福で、各地には競うようにして美術館が建っていた。教育機関は盛んに企業メセナ(企業主体の文化支援)を取り上げる。それを頭一杯に詰め込んで勇んで来たんだけど、それが全く役に立たない世界がここには広がっていたわけです。
だけど同時に、これは文化の根源だとも気付いた。文化の根源と平和の根源は同根だと僕は思っているんです。何より、ここでは一人ひとりが尊重されているし、無理のないかたちでこの場所を大事だと思う人が集まって、互いを支え合っている。お金もそうだしマンパワーもそう。それは、90年代当時の浴びるように箱モノにお金をかけた時代にはみすぼらしく見えたかもしれない。けど、その泥臭さは、本当に大事なのは何なのかというのを力強く示唆していた。真に大切なのは、〝その場所でしかできない″ということなんです。それが出来てる美術館は、日本中見渡してもここ以外見当たらなかった。
それをより鮮明にしたのは欧州旅行だった。欧州には大きな美術館以外に小さな美術館が一杯あるんです。それを見て歩くうち、多分、自分は小さな箱の方が好きなんだな、というのが分かった。大きな美術館は何でも揃っているけど、逆に言えば深みがない。上澄みをすくって寄せ集めただけのようにも見える。それよりも、小さくてもしっかり根を張っている方が僕の目には魅力的に映った。そう思ったとき、丸木美術館ほど根っこを張っているところは他にないなと気付いて。丸木美術館には初の学芸員として入ったわけだけど、そこにも動機があった。サン=テグジュペリの小説に、自分の椅子(仕事)は自分で用意する、というような言葉があるんだけど、当時、それに凄く影響を受けていたんです。誰もが目指す場所ではなくて、自分の居場所を作りたい。そして、それは丸木美術館かなと思った。