岡村 幸宣さん(学芸員)

丸木美術館は生活が独特とか。慣れるまで大変では

 予想以上に大変でしたね。まず、面接で聞いてた金額と最初の給料が違う(笑い)。それに何しろ基本が自給自足の生活なので――。皆さん良くしてくれるけど、でもそれだけじゃ生活は回っていかない。で、結局それは自分でやるしかない。もう怒りのパワーです(笑い)。「こんなに生活ができないなんてオカシイ」ってね。こう言うと、「なんで逃げ出さなかったんですか」って凄く言われるんですが、じゃあ逃げ出して、その先でまた椅子取りゲームで人の席を奪うのかと考えたとき、それは違うなと思ったんです。

 大学卒業後の数年間、欧州を含め各地を旅して歩いた。旅をすること自体が日常化する中で、ふと違和感を感じた。日常から離れて生きるために旅をしていたはずなのに、いつの間にか移動することが日常になっている。これじゃ同じことの繰り返しだと。それならいっそ、ちゃんと一ところに根を下ろして暮らした方がいい。そう思って日本に帰って来たんです。一旦、丸木美術館に居を定めたからには最期までとは言わないまでも、せめてきちんと根を下ろした実感が持てるまでは、少なくとも自分から離れることは出来ないという思いがあった。それに頭のどこかで、もしかしたら丸木美術館、僕が辞める前になくなっちゃうかも、とも思っていて(笑い)。むしろその可能性の方を強く感じていた。辞めるなら美術館が立ち行かなくなってからってね。それで辞め時を逃した所もありますね。

コロナの影響はどんな形で

 もう真っ先に自粛の対象に差し出されたというか(笑い)。経済活動に影響がないと思われたんでしょうね。でも、丸木美術館というのは館名に作品名が入っているくらい、本当に絵のために作られた場所なんです。『原爆の図』をいつでも見られるように扉を開いておくのは、社会的意義から見ても重要だと思っていて。それでも今回は本当に想定外の出来事でした。自粛要請にしても、現政権の政策に対する批判はもちろんあるんだけど、それだけで片付けられない問題があった。抵抗して開き続けることも出来るんだけど、それが果たして正しいことなのかの判断が自分達ではできない。命を大切にする美術館を開くことが命を奪うことになるかもしれない……、そんなジレンマにすっかり陥ってしまって。結果として、2カ月間、美術館を休館するという重い決断を下すことになりました。

休館の間どんな思いを

 経営のこととか、本当、色々考えさせられましたね。このコロナ禍は、本当に沢山の方から寄付を頂いた。でも、実は当初、寄付を募ろうとはあまり考えていなかったんです。休館を聞きつけた地元の新聞社さんが心配して取材に来てくれた。その記事が拡散して、次第に寄付が集まり始めた。ただ、そのときはまだ受け皿がなかったので、前からあった美術館建て替えの寄付にどんどんと押し寄せる。それで慌てて専用の口座を開設した。で、一度動き出すと今はネット社会です。そこから今度は世界中に広がっていった。奇しくも、ネット入金システムをこの四月に立ち上げたばかりで、それが早速活用された形です。海外からの入金も相次いだ。

 印象的だったのは、寄付をするのは、必ずしもここに来れるわけじゃない、この先も来られる保証もない人たちということだった。自分は来れないんだけど丸木美術館には存続して欲しい、そこにあり続けて欲しいという思いを強く感じた。普通、寄付は何か見返りを求めがちなんです。自分がそこに行きたい、参加したいというのが大抵ある。でもどうもこの美術館はそれだけじゃない。自分以外の、例えば未来の人たちのために支えたい……、そういう方々が凄く多いんですね。いつも本当に多くの寄付で成り立っている美術館なんだけど、それは常にギリギリで。とにかく一人でも多くの入館者を、という考えでそれまでやってきた。企画展や講演会を可能な限り増やし、その甲斐あって、ここ数年は、千人単位の来館者の増加があった。

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