中村 敦夫さん(俳優)
ところが入ってみると一週間しないうちにその学科の正体を知ってね。定数20人ほどの小さな学科だからほどなくみんな知り合いになる。そうするとみんなが就職の話をしてるんです。「あそこは退職金が幾らだどうだ」とそんなことばかり話す。聞けば浪人して入ってきたのも沢山いる。なんだこれは……、と唖然とするんだけど、ようするに「商社マンコース」だったんですね。20人中、15、6人は確実に商社に入る。国内のサラリーマン人生から逃げようとしてるのに、それに輪をかけて強烈な、外国で戦う「モーレツ社員」の育成機関に入ってしまったんです。コレはしまったなァと思ってね。しょうがないから時間をつぶすために野球部に入ったんです。だからよく「何科ですか」と聞かれるんだけど、「野球部」と答えてる(笑い)。授業に出てなかったからね。
演劇の世界にはどうして
演劇は、絵やほかの好きなもの同様、小さいころから年中やっていた。学芸会では常に主役だったし、それどころか脚本を書いたり演出までしていた。「小学校の卒業式の謝恩会でなにかやりなさい」、そう先生に言われて、「20年後の同窓会」という戯曲を書いたんです。卒業から20年後、おじさんおばさんになって集まった同窓生たちが思い出話をするという構成なんだけど、目いっぱい嫌いな先生たちの悪口を書いた。それを校長やらPTAやらみんないる前で発表したわけです。言ってみれば文化的手段での逆襲ですよね。僕はいまでもアレが生涯一の傑作だと思うんだけどね。大学生活が2年目に入ってもやっぱり勉強する気にならない。そのうちついに単位が足りなくなり落第した。でも、こんなところで1年余計になんて過ごしたくないわけですよ。なんか逃げる口実はないかな、と目を付けたのが演劇だった。当時先端を走ってたのは、「新劇」というジャンルで、いくつかの大きな劇団が先端的なテーマで興行をうっていた。その中で一番システムがしっかりしていたのが「俳優座」だった。で、その養成所に入った。
ハワイ大学に留学されます
3年経って卒業の時期がくると、「文学座」を受けた。良い生徒じゃなかったからね。授業には反抗し通しだったし、俳優座は無理だと思ってた。ところが、僕には俳優座に来い、という重鎮がいてね。小沢栄太郎さんという人なんだけど、文学座に入ったところをトレードされちゃった。でも悪い気はしなかった。そんなに買ってくれるなら、どんな大役をつけてくれるんだろう、とね。ところが入ってみるとなかなか役にもつかない。あとで分かったんだけど、どうも英語のできるスタッフが欲しかっただけなんですよね。文芸部みたいなところに入れられて塩漬けですよ。それでどうしたかっていうと、文芸部だから資金はある。その金で〝外国の演劇を勉強する″と外国の演劇誌をとって読み漁った。そうすると当時そんな人はいないからすぐに権威になっちゃうわけですよ。