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中島 ノブユキさん(音楽家)

思春期の思い出は

 小さい頃から、ずっと興味の中心は、映画と音楽でした。というのも祖父母が大の映画好きで、二人に連れられてよく、高崎、前橋あたりに、封切りの映画を見に行ったんです。戦争モノ、恋愛モノ……、見る映画は当然のように子ども向けじゃない。それでも、暗闇に燦然と浮かぶスクリーン、そこから響く、重厚、あるいは軽妙な音楽に、圧倒的な魅力を感じる。そうして館内に満ちた、観客たちの期待感が入り交じる独特のムードに、いつも胸をときめかせていました。

音楽を志したのはいつ頃

中島:はじめ父は、私には家業の文房具屋を継がせようと決めていたようで、家を継ぐか、さもなければ医者になれ、の一点張りでした。期待を背負い、小学校のころは良かった私の通信簿も、中学、高校と進むに従って調子を落とし、高校も半ばを過ぎるころには、父はすっかり医者の方は諦めた様子でした。私はといえば、中、高と音楽の勉強を続ける中で、ただピアノを弾くというのだけではなく、編曲や作曲にも少しづつ興味が生まれていました。

将来を掴んだ成り行きは

 音楽をやりたい、と頭を下げる私に、父は頑として譲らず、半ばけんか腰の平行線が続いていました。高校1年冬の早朝、その日も通学路を自転車で急いでいました。眼下には国道18号線の下り坂が広がり、路肩に溶け残る雪が視界の端を次々に飛んでいく……。と、突然、雪塊を割って、トラックが横道からぬっと姿を現しました。とっさに切るハンドル。しかし急な方向転換にタイヤを滑らせた自転車は、一瞬宙に浮んだ後、私の身体ごと道路の真ん中に打ちつけられました。死んだ――。朝の八時十五分……、いつもなら激しく雪埃を巻いてトラックが往来する時刻。しかし、死を覚悟してつむった目が、次の瞬間に見たのは、ただ静寂。倒れてから起き上がるまでの間、車はただの一台も通らなかったんです。まさに奇跡でした。鈍くまわる頭で、近くの公衆電話を探し、やっとダイヤルを回すと、父の声が聞こえました。その日、学校から帰ると、神妙な面持ちの父が待っていました。「お前は一度死んだんだから、好きな事をやればいい」……運命が変わった瞬間でした。

日大芸術学部に進みます

 どこの学校にしよう――迷う私に、高校の音楽の先生は、「こういう学校があるが受けてみるか」とパンフレットを手渡した。それが日大劇述学部の夏期講習案内でした。まずは行ってみよう――。そうして受けた夏期講習で峰村澄子先生に出会い、師事することになったんです。毎週日曜日、東京の先生の自宅まで電車を乗り継ぎ通う。大変な道のりにも、母は「行く前は疲れているけど、帰ってくると元気になってる」、キラキラした目をしてる、と言っていましたね。

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