中村 憲剛さん(元プロサッカー選手)
プロへの志はいつ頃
僕がちょうど中学1年生のときにJリーグが始まったんです。そんなわけだから、もちろん小学校の卒業文集の〈将来の夢〉には「Jリーガー」という文字が躍ったし、そうなりたいと思ってはいたけど、それが中、高と上がるにつれて、ちょっとコレは……、と思い始めて。というのも、当時の僕はそんなこと恥ずかしくて言えないな、という選手になっていたんです。その流れが変わったのは大学に入学してから。実は大学生はJリーグのサブの選手というか、1・5軍の選手と練習試合する機会が結構あるんです。中央大学が関東1部に所属していたこともあって、腕を試せる機会に多く恵まれることが出来た。その中で、学年が上がるごとに徐々に自分のプレーが出せるようになっていくのを感じて。で、4年になって最初の進路相談で「Jに行きたい」とコーチに希望を伝えました。
他の選択肢を考えたことは
無かったですね……、っていうかプロになれなかったら本当、どうしてたんでしょうね(笑い)。大学3年が終わって両親と就職の相談をしたとき、「Jリーガーになりたいから就職活動は一切しないつもりだから」って話したんです。ちょうど中央大学が関東一部から二部に降格した直後のことで、それも50数年続く部の歴史上、初めてのことだった。その年からキャプテンを勤める僕にはプレッシャーと重責がのしかかりました。なので、1年でなんとか一部に戻さなきゃいけない、そこにも集中したいからと説明して。だから本当に就職活動はしなかったんです。まぁ、リーグ戦で頑張れば、ひょっとしたらスカウトの目に留まるかもしれないという淡い期待と、一部に戻せばもしかしたらOBの方が就職を斡旋してくれるんじゃないかという浅い目算がありました(笑い)、でも本当に綱渡りで。今思うとゾっとします。
学業との両立に苦労はありましたか
幸い卒業の単位は3年までにある程度取り終えていて、でも、もちろんそれも簡単じゃなかったですね。1年の頃なんか部の練習より授業に多く出たりして……。中央大学って体育学部がないんですよ。要はスポーツ推薦で入って来た学生も、一般の人たちとまったく一緒の条件で勉強しなくちゃいけないわけで。教授にも体育学生が好きな先生もいれば、理解してくれない先生もいる。だから本当に必死でしたね。クラスメイトにも凄く助けられて。
念願のプロの世界の感触はいかがでしたか
プロになってみて、あらためてアマチュアとは全然違うと思いました。アマチュアはある程度自分の生活が確保された中での活動だけど、プロはすべての責任を自分で取らなきゃいけない。出場もそうだし、ゴール、アシストもそう。その結果のすべてを自分が負わなきゃいけないんです。ただその分お金もいただけたり、自分のプレーでサポーターやファンの皆さんを喜ばせたり、感動を届けたりも出来る。そういう常に良い方を感じながら、同時に、お金を貰っている以上はそれに見合った選手にならなきゃいけないと、自分を叱咤激励していました。