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依田 司さん(気象予報士)

NECではどんなお仕事を

 NECには、同じ学科から3人が行ったんですが、そうするとやはり成績順に行きたい部署が決まっていくんですよ。で、みんなやっぱりお天気関係がやりたい(笑い)。僕の成績は3人のちょうど真ん中だったので、結局、第二、第三希望ぐらいの部署に配属された。そこはまったくお天気とは関係なくて……。海外の企業やホテルに納めるPBX――電話の構内交換機ですが、つまりホテルや企業の内線システムの大元のシステムと、それに繋がる電話をパッケージにしてクライアント企業に提案する、そんな職場だった。まったく畑違いだし「PBXてなに?」という話なんだけど、僕が配属になったのが海外の部署だったんですよ。なので、多少は面白かった。なにしろ、やり取りの相手は全部外国人。日本人とは工場でわずかな接点があるだけで、あとはすべて『NECアメリカ』とか『NECメキシコ』とかそういう現地法人とのやり取りだったんです。

英語はお得意だった

 それが全然得意じゃなくて(笑い)。ただ、それなりに面白かったんです。やっぱり大きな会社だったので、研修制度がまずしっかりしている。最初、いきなり一週間くらい研修センターに缶詰めにされて、一切、日本語禁止の講座を受けたり――、そういうのを頻繁にするうち、次第に英語が得意分野に変わっていった。凄く良い勉強をさせてもらったと思います。なにより海外で仕事をすると物怖じしなくなるんです。何度も修羅場みたいのを経験しましたが、そのうち、ジタバタしても仕方ないナと思うようになった。

人生の転機は

 NECで働いて六年目くらいのときに、新聞を読んでいると「お天気の自由化」という記事がふと目にとまった。当時はいろんなものが自由化されていった時代で、お天気もそのひとつだった。それを見て、「あ、これはもう気象予報士の資格をとりあえず取ろう」と思ったんです。そこから勉強をはじめ、第一回の試験を受けにいった。会場は早稲田大学だった。試験を終えて出ようとすると校門でなにやらパンフレットを配っている。見ると、「自宅のPCでひまわりの雲画像のシステムを受信できる」という内容だった。いまでこそもう当たり前のようにインターネットで見られますが、当時、コレはもの凄い衝撃ですよ。自宅でひまわりの雲画像が見られるなんて本当に画期的だった。パンフレットは最後に「社員募集」の紙で終わっていて『株式会社ウェザーニューズ』とある。その紙に応募したらまんまと受かってしまった。それからこっちの業界にきたという流れですね。

大会社を辞めるのに躊躇は

 僕のなかには、終始ブレずに「お天気」というのがあった。それにNECでは、やっぱり行きたいところに行けなかったというのもありました。それが、ある日突然、「お天気の自由化」「気象予報士制度」となって……。もちろん、最初それを職業になんて夢にも思わなかったんだけど、あのパンフレットをもらったときに、「まだこっちの業界にいまからでも行けるんだ」と思った。で、すぐ応募しましたね。なんの未練もなく。当時すでに結婚していたので、カミさんには相談しましたが、まったく反対もナシ。そこはいまでも感謝してますね。

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