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早見 和真さん(小説家)

 でも、20歳の何もない人間が、いきなり「何か書きたいです」と来ても、大抵、門前払いです。それでも、一定数、面白がってくれる粋なおじさんたちもいて、なんとか仕事にありついた。記念すべき初仕事は朝日新聞出版の『アエラ』。当時、「世界の遺産」という企画があって、そのページを任せると言うんです。自分で文章を書いて、写真も撮れるなら撮ってくればいい—、「原稿料はずむよ」と言ってくれて。で、20歳でアエラに載った、となると、やっぱりインパクトがある。名刺代わりにもなるわけですよ。そのうち、海外を周って帰ると、却ってお金が増えてる、なんてことも出てきて……。楽しかったですね。一生、コレでいいな、と思った時期もありました。

卒業、就職の時期が来ます

 そんなふうだから、大学には全然行かなくて、一方で、就職活動はしたかった。相変わらず、小説家やノンフィクションライターにはリアリティを抱けないし、いよいよ、新聞記者しかない、と気持ちは固まるばかり……。でも、大学3留の経歴のおかげで、ことごとく書類で落としてくれて(苦笑)。ただ、それでも、面接に行けば間違いなく勝てる、という自信はあった。同年代の誰より経験を積んでいるぞ、とね。結局、8社が面接に呼んでくれて、そのうち7社に内定を貰うことが出来た。ロスジェネ世代なので、これはよく驚かれますね。

作家への転機はいつ

 沢山の内定から、最終的に決めたのは朝日新聞社だった。国学院から朝日新聞は十数年ぶりの快挙というので、大学はこれでもかとチヤホヤしてくれる。ところが、これにはよもやの落とし穴があって。海外に入り浸っていたせいで、ろくに単位を取れていなかったんです。ともあれ、「朝日の内定」という快挙に、大学も特例を出してくれるのでは、と淡い期待もしていたんですが……。家の経済状況はいよいよ悪いし、ついに煮詰まって、すべてを朝日の人事部長に打ち明けると、「来年もう一度受けろ。下駄をはかしてやるとは言えないけど、私たちは早見くんのことを忘れないと思う」と言ってくれた。でも、その瞬間、ギリギリで、なんとか張りつめていた糸がプツンと切れてしまって。大学に戻る気力もなく、そもそも学費の用意も出来ず、さあどうしよう、となったとき、人生で初めて家に引き籠った。

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