笠井 信輔さん(フリーアナウンサー)
フジテレビ朝の『情報プレゼンター とくダネ!』を長く牽引したアナウンサー・笠井信輔さんのフリー転身の報があったのは、一昨年のこと。直後、癌が発覚し、世間に衝撃を与えたのは記憶に新しいが、このときの体験を綴る『生きる力 引き算の縁と足し算の縁』が今冬KADOKAWAから刊行された。コロナ禍の闘病で特に大きかったのは病床での孤立と、そこに光を与えたSNSだったという。太陽にも似たキャラクターのルーツはどこにあるのか。「多くの人に恵まれここまで来た」と微笑する賢哲の十代を訊いた。
東京のご出身だとか
幼稚園から小学校の1年生までは狛江で、その後を町田で過ごしました。狛江は父が役所勤めだったこともあってとても慣れ親しんでいたんだけど、それにしたって当時住んでいた家があまりにもボロボロでね。8畳一間に台所と2畳程の納戸という空間に家族5人が絶えずひしめきあって、そこに鼠は出るわで物凄い貧乏暮らしをしていた。風呂場もなかったので、ある日、父の仲間が集まって風呂を作ってくれたくらいで。その暮らしにも限界が来た小学1年の頃、丁度、町田の団地が当たってそれで越しました。藤の台団地——、いわゆるニュータウン構想の真っただ中の町田で、それからの子ども時代のすべてを過ごして。
その頃の学業事情は
勉強は出来ましたね。特に力を入れていたわけじゃないけど、何故か出来ました。きっと自頭が良かったんだろうね(笑い)。でもそれも中学まででした。中学からはもうダメで。だから大学も現役時代は全滅して浪人しました。ただ、小さい頃を思い出して一つ言えるのは、開発前の町田の片田舎で、勉強よりも遊ぶことに一生懸命に過ごす子どもたちに、親も学校も「もっと勉強しろ」とは全く言わなかったということですね。宿題もほとんどなくて、授業さえちゃんと聞いていればある程度成績はついた。そういう意味では自分の子とかを見ても、今の子は過酷だなと思います。
その頃の家庭環境は
弟とは憎しみあっていましたね(笑い)。なにしろ一つ違いだからもうライバルなわけですよ。ガラスを割ったり髪の毛をむしりあったりして、毎度大喧嘩で。しまいには前を横切るだけでぶん殴ってました(笑い)。とにかく存在自体が邪魔で仕方がないんです。当然向こうもそう思っていて、そんな関係が僕が中学校に上がるまで続いた。それが中学に上がると、僕の方が「もう立場が違う」ってなって終わりました。オレはもう小学生じゃねェってね。