清水 ミチコさん(タレント)
短大時代のエピソードは
ショートケーキを作ったのが一番の思い出ですね。その授業の後に、ショートケーキって自分で作れるんだ! と、しきりに感動して。その勢いで、そうだ、お菓子屋さんのバイトをしよう、と学校の導線を探し回り、ついに見つけると、早速、学校帰りに働いていました。
ピアノがお好きとか
矢野さんへの憧れもあって、実家にいる頃はいつもピアノを弾いていたんです。それが東京に来て、初めてピアノの無い生活を経験して——。でも、しばらくするとやっぱり好きなピアノが弾きたいと我慢できなくなり、探すと、ヤマハのレンタルスペースが見つかりました。当時、一時間600円くらいだったと思います。そこでピアノを弾いて思い切り歌を歌いましたね。まあ今でいうカラオケみたいなもんです。歌うととにかく気持ちが良くってスッとしました。
その頃から雑誌に投稿を
当時、『ビックリハウス』というサブカルチャー雑誌があったんです。それに、有名人に「あだ名を付けてみよう」とか、「標語を作ってみよう」などのコーナーがあって、そこに投稿していました。ちょっと政治や社会を風刺するような空気感もあった気がします。丁度、ビートたけしさんの〈赤信号 みんなで渡れば 怖くない〉が流行った頃で、雑誌はその手の作品を広く募集していたんです。それに自分の作品がちょいちょい載ったり、ラジオの投稿が読まれてるのを聞いてはニンマリして——。地味に聞こえるかもしれないですけど、その頃は、自分の書いたものが掲載されたり読まれたりする、コレ以上の喜びはないな、と思っていましたね。
世に出るきっかけは
バイト先に親戚が放送作家を探してる、という人がいたんです。それを聞いて、ここぞとばかりに、「私、こういうのに載ってきたんです」と雑誌の投稿を見せ、紹介をお願いし、なんとかチャンスを掴む機会にこぎつけて。元々、投稿を続ける中で、いつかこれらが将来に繋がったらいいなとは思っていたんです。初仕事は、録音は東京だけど、オンエアは九州というラジオ番組で、パーソナリティーのアシスタントと放送作家の二刀を務めることになって。そのとき、改めて、こんな機会が転がってるなんて東京ってホントに凄いなと思いましたね。
そこから出世街道に
私が小さな劇場でライブをしているところを、フジテレビの『笑っていいとも!』の制作者の方が見に来てくれたのをきっかけに、タモリさんとのコーナーでデビューすることになって——、としばらくは順風満帆が続きました。それが、その後に出演することになった『夢で逢えたら』で衝撃を受けて。他の演者たちが次々とアドリブを繰り出すのを尻目に、自分は何も出来ないという現実を突きつけられたんです。そのときに、そういえば私ってみんなで力を合わせて何かを作り上げるって昔から不得手だったな……、と痛感させられて。思えば、なんでも自己流、一人で勝手にやってきた人生だったなって。それがスゴくショックだったし、ビックリしました。まさにカルチャーショックという感じ。落ち込みましたね。